千の言葉を重ねるよりも

土千18

「――蝦夷地への同行は許さん。お前の存在は、俺たちの邪魔になる」

【命令】という逆らえない形で私を突き放すと、土方さんは背を向け立ち去る。
嫌だと、いくら名を呼んでも彼が振り返ることはない。
どこから飛んできたのか、桜の花弁が視界を覆って彼の姿を失わせる。

「――土方さん!」
途方もない喪失感と、例えようのない恐怖に、千鶴は悲鳴のように彼の名を叫んだ。




「…………っ千鶴!」
肩を揺さぶられ、目を覚ました千鶴は、惑う視線を辺りに送る。
気遣うように目を細めて、頬に伝う涙を指先で拭うひとに、千鶴は呆然と見つめて呟いた。

「……土方……さん……?」
「……悪い夢でも見たのか?」

濡れた頬と、久方ぶりの呼び名。
夫婦となり、千鶴は『歳三』と名で呼ぶようになっていた。
そんな彼女が彼を姓で呼んだのはきっと、昔の夢を見たからなのだろう。

「……歳三さん」
「ああ。……どうした?」

そこに在ることを確かめるように見上げる千鶴に柔らかく微笑むと、瞳に戻った光に夢から現実へ気を向けたことを認識する。

「……夢を……見ました」
ぽつり、ぽつりと紡がれる言葉を、遮ることなく静かに聞く。

「私が仙台で新選組と…歳三さんと別れた時の夢です。……ただあの時とは違って、桜が去っていく歳三さんを覆い隠して……それがひどく怖かったんです……」

幸せになれと、一人仙台に置いていかれた時は、胸が張り裂けそうなぐらい辛く、苦しかった。
けれども夢は、さらに土方を連れ去って……もう二度と千鶴の手が届かない所へ連れていくかのようで、震える身体を堪えるように掛布団を握りしめた。

「……お前のことを思ってとはいえ、あの時は辛い思いをさせちまったな」

「いえ……歳三さんが私を気遣ってくださっての判断だったことはわかってます」

「それでも、お前を泣かせたことに変わりはねえ」

眦に残った雫を拭われ、千鶴はそっと目を伏せた。
あの時の別れが辛くなかったと言ったら嘘になる。
近藤を失い、一人ですべてを背負い進む土方を支えたいと、そう強く願っていたから。
しかし、今千鶴が震えるほど怯えているのは過去の夢にではない。
いつも心の奥にある消せない不安……土方との別れを映し出されたからだった。

覚悟はしているつもりだった。
変若水は不老不死の妙薬などではなく、飲んだ者の命を糧に信じられない力を与えるもの。
力をふるえばふるうほどその命は削られ、最後は灰となって一片の欠片も残さず消えていく……それが羅刹の運命だった。
仙台城で灰になった平助と山南。
千鶴にとって二人の消失はあまりにも突然のことだった。

『オレらは、先に行くけどさ。土方さんはのんびり生きろよ?』

土方を気遣う平助の声は、今も忘れることはない。
羅刹の身体を救う手がかりを残して消えていった山南の言葉通り、この地の風土は羅刹の吸血衝動を抑え、少しずつ癒してくれているようだった。
あれから土方が羅刹になることはない。
しかしそれは、彼の身体から変若水が薄まったからではなく、燃やす糧がなくなったからなのだろう。

彼が長くは生きられないことはわかっていた。
わかっていてなお、彼の傍にいたいと、そう願ったのは千鶴。
しかし、どれほどの時間が残されているかわからない不安は、いつの間にか彼女の心を疲弊させていた。
止まらぬ不安に身を震わせると抱き寄せられ、あたたかな腕に覆われる。

「……俺はいるだろう?」

耳に届いた優しい声は、千鶴の不安を癒すもので、伝わる鼓動に気持ちが凪いでいく。
――ここに、土方はいる。

「………はい。歳三さんは、私の傍にいます」
頷き繰り返せば、わかってるじゃねえかと苦笑されて、額に唇が降り落ちる。

「……俺は終わりなんざ求めてねえ。生きていたいから足掻き続ける。……お前が俺の生きる理由だからな」

優しく繰り返す約束に、再び溢れた涙が彼の着物に染みていく。
――桜が好き。
彼に似た桜が……彼と過ごした幸福を思い返させてくれる、淡い薄紅の花が好きだと、改めて思い出す。
夢の中では恐怖を与えた桜だが、千鶴にとっての真実は大切で愛しい花だった。

「ごめんなさい、歳三さん。心配をかけてしまって……」

「お前の涙を拭うのは俺の役目だ。……そうだろ?」

「……はい」

甘やかす言葉に素直に頷くと、一向に止まらない涙をそれでも拭い続けてくれる優しい指先に、この人が好きだと強く思う。

「千鶴。眠いか?」
「いえ、目は冴えてますが…どうかしましたか?」
「だったらちょっと外に出ねえか?」
夫の誘いに驚くと、身を起こした彼に倣い、羽織を取る。

「春とはいえ、夜は冷え込みますからこれを羽織ってください」

「お前は本当に心配症だな。……ああ、わかったから怒るな」

ため息交じりに羽織を受け取る土方に吊り上げていた眉を下ろすと、自分も羽織り縁側に出る。
ようやく雪が融けたが空気は寒々しく、思わず身震いするとそっと抱き寄せられた。

「こうすれば二人とも暖かいだろ」
「……はい。あの、ありがとうございます」

もう肌を重ねる間柄だというのに照れてしまうのが千鶴の可愛らしいところで、土方は微笑みながら空を見た。
暗闇に浮かぶ数々の小さな光。
人は死ぬと星になるのだと、昔姉から聞いたことがあった。
それがただの戯言だとわかっていても、あの光が仲間たちだと思えば愛しくて、自然と口元がほころんだ。

「歳三さん?」
「感傷的になるなんざ柄でもねえ。総司あたりに聞かれたら、散々馬鹿にされるだろうな」

思い出された面々に苦笑しながら、首を傾げる千鶴にわけを教えると、嬉しそうに目を輝かせて、同じように空を見上げる。

「私、桜と同じぐらい星も好きです」

そんなに桜が好きなのかと問うた時、桜は土方に似ているから好きだと千鶴が答えたことを思い出し、笑んでその身に絡めた腕の力を強める。

「桜や星より、目の前の俺の方がだろ……?」

耳元へ甘く囁けば、瞬時に赤らむ顔に微笑んで、再び空を眺め見る。
たとえ抱き寄せる腕がなくなっても、声が届かなくても。
想いは残る。それは土方自身が知る事実。
永遠は望めなくとも、この想いが千鶴を支えるだろう。

『それなら……土方さんは、私のものですよね?』

笑いながらそう告げた千鶴の想いはわかっていた。
強くて健気で、愛しい女。
彼の愛した女は、そういう女なのだから。

「身体が冷え切る前に家に戻るか」
「そうですね」
頷きながらも、名残惜しそうに星を見上げる千鶴に苦笑して、誘うように唇を指先でなぞる。

「……それとも、お前が温めてくれるか? それならそれで構わねえぜ」
「……わ、わかりましたっ! 戻ります!」

意味を解するようになったのは土方の指導の賜物だろう、赤くなった千鶴の肩を抱き、寝室へと促した。
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