「あの……名前で呼んでもらえませんか?」
そうお願いした時、忍人さんは驚いた顔をしたけど、ちゃんと呼んでくれた。
千尋、と。
その時は、遠くに感じていた忍人さんとの距離が縮んだような気がして、とても嬉しかった。
その後も時々、二人だけでいるような時は、名前で呼んでくれることがあった。
だけど王となった今では、彼が名前で呼ぶことはなかった。
礼儀や決まりに厳しい彼だから、当然と言えば当然であったが、それが千尋にはたまらなく寂しかった。
縮んだように思えた距離が、またぐっと広がった、そんな気持ちがした。
遠征の報告にやってきた忍人の顔を見つめながら、千尋は泣きたくなる気持ちをこらえていた。
「……陛下?」
いぶかしむ様な忍人の声に、千尋はハッと顔を上げた。
いつの間にか、俯いてしまっていたのだ。
「具合でも悪いのですか?」
「そんなことないです。ごめんなさい……続けてください」
途中で止まった報告を促して、千尋はくっと唇に力を込めた。
そうしないと、すぐにまた俯いてしまいそうだったから。
「……どうしたんだ?」
言葉を崩し、以前のように語りかける忍人に、千尋はこらえきれずに顔を覆ってしまった。
「具合が悪いのなら無理をしない方がいい。すぐに侍医を呼ぼう」
「違うんです! 具合が悪いんじゃないんです……ッ」
身を翻そうとする忍人の服の裾を、千尋は掴んでかぶりを振った。
「本当にどうしたというんだ?」
膝をついて、しゃがみこんだ千尋を覗き込む忍人に、こらえきれずに呟く。
「……で呼んで」
「なんだ?」
「名前で……呼んでください。陛下なんて言わないで……ッ」
千尋の言葉に、忍人がすっと押し黙る。
一瞬の沈黙の後、忍人はそっと千尋を抱き寄せた。
「……すまない。知らずに俺は君を傷つけていたようだ。すまない……千尋」
久しぶりに名前を呼んでくれた忍人に、千尋の涙がさらに溢れ出した。
「泣かないでくれ。君を泣かせたくない」
「ごめ……なさ……い」
「謝らなくていい。謝るのは俺の方だ」
「忍人さんは悪くないんです。私がわがままなだけなんです……ッ」
泣きじゃくる千尋を宥めるように、忍人の細い指先が彼女の髪を撫でた。
「あの時……一緒に桜を観に行ったあの時に思ったことを、俺はずっと君に言えずにいた」
「……忍人さん?」
忍人の言葉の意味が分からず、千尋は涙に濡れた瞳を向けた。
そんな千尋をまっすぐに見つめると、忍人は口を開いた。
「俺は君が……千尋が好きなんだ」
思いがけない告白に、千尋は我が耳を疑う。
いつだって臣下の礼を崩さなかった忍人が、まさか自分のことを想ってくれていたなんて、思いもよらなかったのである。
信じられない、そんな思いを宿す千尋の瞳に、忍人は困ったように微笑むと、もう一度言の葉を告げた。
「俺は君を愛してる」