それは甘く、静かに浸透する。
時に戸惑わせ。
優しく、優しく、降り積もり。
愛しい想いが花開く。
* *
「あ、忍人さん」
千尋の呼びかけに振り返ると、つん、と一房髪が引かれた。
「ここ。寝癖がついてますよ」
彼女が手にしている箇所に触れてみる。
……確かに一房はねていた。
さっと手櫛で梳いてみるが、その程度では直らず。
「ちょっと待っててくださいね」
奥の部屋へ戻った千尋は、櫛を手に戻ってきた。
そうして忍人の髪を梳こうしたのを、慌てて押し止める。
「これぐらい自分でできる」
「でも後ろだし、結構手ごわそうですよ?」
確かに自分では見ることができないが、彼女にそれをさせることは躊躇われた。
「女王が臣下の髪を梳くなど論外だ」
「臣下……って、忍人さんは私の旦那様ですよ」
「臣下であることは変わらない」
千尋は中つ国の女王。
忍人はこの国の将軍。
たとえ彼女の伴侶となり得ようと、それは変わらぬことだった。
「…………」
押し黙った千尋を不審に思い、振り返って驚く。
空色の瞳には涙がたまっていた。
「忍人さんは……『女王』と結婚したんですか?」
「…………っ」
震える声に目を瞠る。
ほろり、と大粒の涙がこぼれ落ちた。
「私は『中つ国の姫』としてじゃなく、葦原千尋として……ただの千尋として忍人さんが好きなんです」
「俺は……っ」
「確かに私は姫です。今は女王になりました。でも、私は女王の伴侶を求めたんじゃありません!」
凛とした透き通った瞳。
涙に濡れてもなお、前を見据える強い光。
それは忍人を惹きつけた、彼女の瞳だった。
「……ごめんなさい。私、顔を洗ってきます」
大声を出した事を恥じらってか、身を翻す千尋。
その腕を掴むと、忍人は自分の胸の中へと引き寄せた。
「……すまない。そんなつもりで言ったわけではないんだ」
「いいんです。忍人さんの言ったことは本当ですから」
「聞いてくれ」
俯き、視線を合わそうとしない千尋に、忍人はもどかしげに言の葉を紡ぐ。
口下手でこうした誤解を己が招きやすいことは自覚していた。
それでも今は得手不得手を言うのではなく、彼女の誤解を解かなければならなかった。
「俺は女王の伴侶を望んだわけではない。――君を愛している。だから、俺は狭井君に応じたんだ」
女王の伴侶となるものは、大きな族の跡取りなど、血筋も力もあるものでなければならず、葛城を担う忍人はその条件を満たしていた。
だが忍人が女王の伴侶にと求められ、応じたのは国に殉じるためではない。
千尋だからこそ、彼女の伴侶になりたいと望んだのだ。
「君は確かに女王だ。だが、俺は君だからこそ共に在りたいと望んだんだ」
「忍人さん……」
「すまない」
赤く泣きはらした瞳に苦しげに眉を歪めると、そっと眦の涙を拭う。
愛しい少女を悲しませてしまった己の不甲斐なさが悔しかった。
「私の方こそごめんなさい。朝からこんなことを……」
「いや、悪いのは俺だ」
腕をほどくと、背を向ける。
「……頼めるか?」
「………! はい!」
明るい声と、髪に添えられた温かな感触にほっとする。
優しく梳いていく手。
「君だけだな」
「え?」
「俺の髪にこうして触れるものなど、君ぐらいだと言ったんだ」
鬼将軍と呼ばれる忍人に触れようなど、誰も思わないだろう。
そう告げると、千尋は楽しげに微笑んだ。
「そんなことないですよ。風早だったらきっと大喜びで梳いてくれます」
「…………」
彼女の養い手でもあった兄弟子を思い浮かべ、眉間にしわが寄る。
確かに風早ならば喜々としてやるだろう――笑みを浮かべて。
「はい、直りました」
「ああ。ありがとう」
笑顔の千尋に礼を述べると、そのまま部屋を出ようとしてふと足を止める。
「忍人さん?」
不思議そうに見つめる千尋に、顔を傾けそっと唇を重ね――。
驚き、頬を染めた千尋に目を合わさずに、一言だけ声をかけて外に出る。
「……想いを表わすのは難しいものだな」
戸の向こうで、口元を隠すように顎に手を添え呟くと、忍人はそっとその場を離れた。
*** 後日談 ***
「……千尋」
「はい?」
「俺は毎日髪を梳いてくれとは頼んでいないが?」
「私がやりたいんです」
にこやかにそう答える千尋の手には櫛。
あの日から、千尋は毎日こうして忍人の髪を梳くようになった。
「忍人さんの髪って、まっすぐですごく綺麗だから絡みやすいんですよ?」
「女ではないんだ。少しぐらい乱れていようが構わないだろう」
「身だしなみは大切です。もし私がやるのが嫌なら、風早に頼みましょうか?」
兄弟子に髪を梳かれるなど論外。
忍人は諦めたように腕を組んだ。
さらりと揺れる衣づれの音。
鼻腔をくすぐる甘やかな馨り。
首を掠める暖かな手。
それらがどうしようもなく忍人を掻き乱すなどとは、千尋は気づいていないのだろう。
「……君だけだな」
惑わすのも、惹きつけるのも。
千尋ただ一人だけ。
「忍人さん?」
「いや、なんでもない」
背から降りかかる声に目をつむると、熱を孕む顔を覚まそうと意識を他へと逃がすのだった。