愛しさがこみあげる

忍千10

本日の職務を終え、部屋へと戻った2人は、奇妙な緊張に包まれていた。
柱にもたれ立つ忍人は、真っ赤な顔で所在なさげに指先を弄んでいる千尋に、小さく息を吐いた。

千尋と正式に婚姻を結んだのが半月前。
大きな族の跡取りであったことや、将軍の地位を買われ、反対の声もなく女王の婚姻相手に選ばれた。
もちろん最たる理由は、千尋本人の強い希望だった。

そうして婚約者の名乗りを行い、橿原宮内に二人のための部屋が今日ようやく整えられたのだったが、部屋につくなり身を強張らせた千尋は、よろめくように椅子に腰かけ、そのままずっと無言だった。

「……婚儀を結んだ以上、別室というわけにはいかないのだが」
しかし、無理強いをしたいわけでもない。
事情を話せば、風早あたりなら苦笑しつつも寝場所を提供してくれるだろうと考えていると、ずっと俯いたままだった千尋が顔をあげ、ぶんぶんと首を振った。

「い、一緒が嫌なわけじゃないんです」
「…………」
「ただちょっと緊張してるだけで……」

小さくなっていく語尾に比例するように真っ赤に染まった千尋の耳。
寝所に男と二人きり――。
この状況に年頃の少女である千尋が緊張するのは当然だった。

「今日は君がベッドを使うといい」

「忍人さんはどうするんですか?」

「俺は長椅子に寝る」

「ダ、ダメです! そんなところで寝たら疲れ取れませんよ!」

「戦場では野営もあった。横になる場所があれば十分だ」

「ここは戦場じゃないんですから、ちゃんとベッドで寝てください!」

問答している間に腰の剣を外して上着を脱ぐと、長椅子へと身を横たえた。
そんな忍人に、空色の瞳が翳る。

「……私と一緒に寝るのは嫌ですか?」
震える声に視線を移すと、瞳が揺れていて。
今にもこぼれ落ちそうな涙に、忍人は身を起こし向き直った。

「君は……怖いのだろう? だったら無理する事はない。俺なら大丈夫だ」

「怖いんじゃないんです。ただ緊張しちゃっただけで……忍人さんならいいんです」

緩く首を振ってまっすぐに向けられた瞳は澄んでいて。
一瞬の逡巡の後、忍人はその身を抱き寄せた。

* *

天幕の中、並んで寝そべった二人は、しかし互いに目を合わせられずにいた。
手を伸ばせばすぐにでも触れられる距離。
かすかに感じるぬくもり。
鼻腔をくすぐる甘い香り。
それらが、今隣りに愛する少女がいることを知らしめて忍人の胸が早鐘を打つ。
うるさいほどに高鳴る鼓動が彼女に聞こえてしまわないかと焦るが、それは千尋も同じようだった。

「千尋」
「は、はい!」
「……何もするつもりはないから、安心して寝るといい。おやすみ」
「お、おやすみなさい」

背中越しに声をかけると、動揺して上ずった声が返る。
千尋を安心させるようなうまい言葉を言えない自分に内心でため息をつきつつ、忍人は瞼を閉じた。
兄弟子たちなら、こんな時に気の利いた言葉を言えるのだろうと思うと、彼らを侮蔑していた過去の自分を悔いた。

そうして幾らかの時間が経過した頃、とん、と暖かなぬくもりが触れた。
背後から聞こえる穏やかな寝息。
寝入った千尋が寝返りを打ったのだろう。
しばらくは緊張で眠れない様子を見せていたのだが、忍人が眠ったふりをしている間に彼女もいつの間にか寝落ちたようだった。
起こさないように気をつけながら振り返ると、あどけない寝顔が目に入った。

日中の凛とした女王の面影はなりを潜め、千尋本来の少女らしい表情。
すう、すう、と穏やかな寝息に彼女の自分への信頼が窺い知れた。
寄せられる信頼と、無防備なあどけなさ。
それは嬉しい反面切なくもあり、忍人は苦笑を浮かべた。

「君は婚儀を結ぶということを分かっているのだろうか?」

婚儀を結ぶことは夫婦の契りを交わすこと。
つまり、夫婦となって子を為すことを意味していた。
特に千尋はこの中つ国の女王であり、世継ぎは絶対だった。

女王の伴侶として正式に認められ、こうして寝室を共にすることはすなわち初夜を迎えろということだったが、千尋のあまりの緊張ぶりに忍人は次回に見送ることにしたのである。
明日の狭井君や他への対応を考えると頭の痛い話だが、仕方ないと割り切って千尋に視線をやる。

「信頼してくれるのは嬉しいが、ここまで安心されると複雑なものだな」

寝る前は緊張に身を強張らせていた千尋だったが、何もしないという忍人の言葉に安心したのか、すっかり熟睡していた。

そっと指先で金糸をすくうと、さらさらとこぼれ落ちる。
王族の中でも限られた者にしか現れないというその黄金の色彩は、世界を眩く照らし出す彼女そのものだった。
出逢った頃は、これほどまでに心惹かれる存在になるとは思ってもみなかった。
政も戦も何も知らない小娘――それが忍人が最初に抱いた印象だった。
それでも、突然与えられた任に戸惑いながらも決して放り出さずにやり遂げた千尋を、いつしか愛おしく思っていた。

「ん……」

身じろぎに慌てて手を引くと、ゆっくりと瞼が開いて空色の瞳が忍人を映しだした。
そうして幸せそうに微笑みながら、思いもよらない言の葉が贈られる。

「忍人さん、大好き……」
「………!」

息をのんだ忍人の胸に甘えるようにすり寄ると、再び聞こえ出す穏やかな寝息。
そっと下を覗き込むと、少女はすっかり寝入っていて、忍人は全身の力が抜けるのを感じた。

「……寝言、か」

掌で顔を覆いながら、小さく息を吐く。
千尋の挙動一つに振り回されている己が可笑しくて、笑いがこみあげてきた。

「君はすごいな」

鬼将軍と恐れられる自分をこのように振り回すことが出来るのは、師君と兄弟子、そして千尋だけだった。

掛布を掛け直して千尋を包むと、腕の中に抱き寄せる。
大切だと思う存在はいたが、愛おしいと思う存在は千尋が初めてだった。

「明日目覚めたら、君はもう一度告げてくれるだろうか?」

このうえもなく幸せそうな顔で大好きと、そう告げた千尋の顔を思い出し微笑む。
今までに感じたのとのない、穏やかで優しい……そして面映ゆい気持ちを抱きながら、忍人はそっと瞼を閉じた。
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