埋められない距離

那千4

那岐はイライラしていた。
原因は、千尋に群がる虫。
今までも言い寄ろうとする輩はいたのだが、文化祭以降その量が倍増したのである。

「千尋が髪を下ろしたりするから……」
普段はきつく結い上げ、まとめている千尋が、クラスイベントにあわせ髪を下ろしたことで、多くの男子生徒の目にとまってしまったのである。

豊葦原を逃れて、この異世界へやってきて4年。
那岐は千尋の従兄弟として、生活を共にしていた。
見知らぬ人間との同居に始めは戸惑ったが、争いのないこの世界に次第に気は安らいでいった。

風早達との生活の中での唯一の決め事は、千尋を守ること。
それは千尋がまだ幼かったというのもあるし、彼女が記憶をなくしていること、そして三人の中でただ一人女であったからだった。
しかし――。

「あ~なんで僕がこんなにイライラしなきゃいけないんだよ」

誰となく呟き、顔をしかめる。
今まで誰にも関心を持たないようにしてきたのに、いつの間にか心に住み着いてしまった少女。
彼女のことにこんなにも気を取らていることが、非常に面白くなかった。
気分を変えようと、階下に飲み物を取りに行こうとして、ふと千尋の部屋のドアが目に入った。
しん、と静まった部屋にそっとドアを開けてみると、室内はすっかり闇に染まっていた。

「いい気なもんだよな……」
すうすうと穏やかに眠る千尋に、那岐がため息をこぼす。

「こっちは千尋のせいで眠れずにいるっていうのにさ」

それはたんなる八つ当たりでしかないが、眠りを妨害されたのは事実なのでつい愚痴がこぼれてしまう。
那岐が再びため息をつき、身を翻そうとした瞬間、千尋の呟きが耳に届いた。

「那岐……」
「え?」
起こしてしまったのかと焦るが、覗いた寝顔はそのままで、ほっと胸をなでおろす。

「なんだ、寝言か……」

はぁと安堵の息を漏らすと、不意に千尋がふんわりと微笑む。
その笑顔に、胸がどくんと大きく高鳴った。
白い首にこぼれた金の髪。
穏やかな寝息を紡ぐ、薄桃色の唇。
それらが那岐を、どうしようもなく惹きつけた。

「……千尋が悪いんだからね」

言い訳のように呟くと、身を屈めてそっと唇を重ねる。
その柔らかな感触に、どくんと大きく鼓動が高鳴る。
――千尋を誰にも渡したくない。
不意に溢れてきたその想いに、那岐は驚き目を見開いた。

単なる同居人。
千尋はそれだけのはずだった。
なのに溢れてきた独占欲が抑えられなくて、促されるままに唇を重ねる。
この感触を誰にも渡したくない。
自分だけが感じたい。
その想いが那岐を支配していた。

「ん……」

身じろいだ千尋に、那岐がはっと我に返る。
ぱっと唇を離すと、千尋を起こさないように音を立てずに部屋を後にした。
自分の部屋へ逃げるように帰った那岐は、ドアを閉めると手で顔を覆い、天を仰いだ。

「何してんだよ……」

不意に蘇る、千尋の柔らかな唇の感触。
その生々しい記憶を振り払うように、那岐は荒々しくベッドに身を沈めた。
千尋に群がる輩への嫉妬。
千尋を求め、渡したくないと思う独占欲。
それらが指し示すのは、ある感情だった。
それでも。

「違う……っ」

浮かんだ言葉を否定して、枕に顔を押しつける。
那岐は自分が誰かを強く想うことを避けていた。
それは師匠の死によって彼に刻まれた『痛み』だった。

「僕は誰も好きになんてならない。誰かを独占したいなんて、そんなことあるわけないんだっ!」

自分に言い聞かせるように呟いて、きゅっと唇をかみしめる。
自分の傍にいるものは不幸になる。
かつて自分を拾い、育ててくれた師匠のように。
あんなふうに大切な人を失うのは、もう嫌だった。
だから、胸に抱いた想いを封印する。

「僕は千尋を好きになんてならない。僕は一人だ」
もう一度呟くと、那岐は頭から布団をかぶって遮断するかのように瞳を閉じた。
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