暦は長月。
那岐にとって一年でもっとも憂鬱な日が今年もやってきた。
長月――9月は那岐の誕生日であったが、それは本当の意味での誕生日ではなかった。
誕生日とはこの世に生を受けた日のこと。
しかし、生まれてすぐに神への捧げ物として葦舟に乗せられた那岐には、正確な誕生日など判りようがなかった。
では『9月15日』という日はどこから来たのか?
それは亡き師匠に那岐が拾われた日だった。
昔を思い出し、師匠が口にしていた日付を覚えていた那岐は、現代で生活するうえで必要だった履歴に載せる誕生日を問われた時、仕方なくその日をあげたのである。
異世界から逃れてきてから5年間、共に暮らしていた千尋と風早は毎年那岐の誕生日を祝ってくれた。
那岐にとって真実でないその日を祝われるのはやや不満であったが、それでも自分を大切に思ってくれるその気持ちは分かっていたので、不服ながらも蝋燭を吹き消し言祝ぎを受けていた。
そんな日々が永遠に続いていくのだろうと思っていたある日、戻る気などなかった豊葦原に千尋と共に突然戻ってきてしまった。
それからは彼の故郷でもある中つ国を復興させるために、戦う日々が始まった。
千尋さえいなければそのような戦いに参加する気などなかったのだが、自分が王族であるという記憶もないのに、旗頭を引き受けた千尋を放ってはおけなかった。
「那ー岐ーっ」
自分を探す少女の声に、まどろみを邪魔された那岐は不機嫌そうに瞳を開けた。
その気配に気づいたのか、千尋がととと……と駆け寄る。
「またこんなところで寝てたの?」
「……いいだろ、別に。用は何?」
眠りの世界に意識を沈めるささやかな一時を邪魔され、声がぶっきらぼうになる。
しかしそんな那岐の対応の悪さにめげることなく、千尋はにっこりと微笑み、両手を前に出した。
「はい。誕生日おめでとう!」
「……これなに?」
「那岐用のきのこ尽くし御膳だよ!」
千尋が盆に載せて運んできたのは、おにぎりや炒め物など数種類のキノコ料理。
「色々プレゼント考えたんだけど、ここはお店もないでしょ? だからせめてもで、那岐の好きな料理を作ったの」
「……って千尋が作ったの? 忍人に見つかったらまた小言言われるよ?」
「う、うん……でも今日は特別だから!」
忍人の眉間にシワを寄せた顔が一瞬よぎるが、ぱぱぱっと払って千尋は微笑んだ。
異世界へ逃亡していた頃、庶民として暮らしていた千尋は、こうして料理することも当然だったが、豊葦原に戻ってからは王族としてそのようなことをすることもなくなっていた。
「いいから食べてみて」
促され、おにぎりを口に運ぶ。
それは過去、何度も口にした懐かしい味。
争いなどない平和な街での生活を思い起こさせるものだった。
「お吸い物もあるんだよ」
はい、とお盆から手渡され、受け取る。
ずっと続くと思っていた、平凡だけど暖かい日常。
豊葦原に戻ってからはもう感じることは出来ないのだろうと、そう思っていた。
けれども――。
「千尋は相変わらずだね」
「え?」
「これから一国の女王になろうって言うのに、料理する姫なんか聞いたことないよ」
「う、ん。でも私は私だから」
困ったように眉を下げる千尋に、那岐はふっと表情を緩めた。
「そのままでいいよ」
「え?」
「千尋はそのままでいいって言ったんだよ」
きょとんと瞳を瞬く千尋に、那岐はお吸い物を口に運ぶ。
誰も寄せ付けず、関わりを持たないようにしてきた那岐。
そんな自分の手を引き、結び付けていたのは千尋だった。
「ほら、千尋も食べなよ。僕一人で全部食べれるわけないだろ?」
「でも那岐へのプレゼントなのに……」
「一緒に食べる方が楽しいって、前に言ってたの千尋だろ?」
「そうだね。じゃあ頂きます」
ぱくりとおにぎりをほうばり、千尋が微笑む。
「千尋、おべんとつけてるよ」
「え? どこ?」
「ほら」
指を伸ばして口の端についていたご飯粒をとると、ぱくりと食べる。
「千尋って本当に子供みたいだよね」
「た、たまたまじゃない!」
真っ赤に染まった千尋に、那岐が微笑む。
真実じゃない『誕生日』。
それでも嬉しいと思えるのは、こうして祝ってくれるのが君だから。
君の祝福だけは悪くないと――心地良く感じられるから。
「ありがとう、千尋」