君に溺れて

アシュ千9

傍らで眠る千尋の額に張りついた前髪を、そっとよけてやる。
先ほどまで睦み合っていた千尋は、疲れ果てて今彼の傍らで穏やかな寝息をたてていた。
そんな千尋を見つめながら、ある日の想いを思い出す。

それは、天鳥船に乗ることになった頃のこと。
千尋に惹かれつつも、敵対する国の姫と皇子ということもあり、深く接触できずにいたアシュヴィン。
禍日神の攻撃で千尋の好意に甘える形となって天鳥船に乗ったアシュヴィンが見たものは、千尋を慕う男達の姿だった。
自由奔放に生きる日向の一族や、鬼人と恐れられていた葛城将軍までもが、千尋には笑顔を見せる。
そんな男達に囲まれて、幸せそうに微笑む千尋。
アシュヴィンの胸に焦燥に似た苛立ちが生まれた。

表向きは静かに、だがそっと千尋の傍らに立ち、彼女の心が自分へ向くのを待つ。
その機会は思わぬ形でやってきた。
狭井君から持ち出された、千尋との政略結婚。

千尋をまだ深くは知らぬ頃に、アシュヴィン自身も政略として一度は考えたことでもあった。
だが、それも今となっては無意味。
アシュヴィン自身が千尋を愛していたのだから、政略結婚になどなりようもないのだから。

アシュヴィンの気持ちが分からず心沈め、涙を見せた千尋にアシュヴィンは焦った。
彼女の涙は初めてで、一軍の将として常に的確な指示を出すアシュヴィンが、涙を流す彼女を前にどうすることも出来ない。
不器用ながらも彼女を宥めようとすると、千尋は少し驚いたように、そして次の瞬間には笑みを浮かべてアシュヴィンを受け入れてくれた。
それからは操られし皇との戦い、全ての元凶である禍日神の消失と、危険と隣り合わせの中で、常に千尋が傍にいた。
こうして今、アシュヴィンの傍らで千尋が眠る姿があるのは、彼女のおかげだった。

「お前があの時、他の男を選んでいたら俺は父のように狂った皇となったのだろうな」
眠る千尋の髪を撫でて呟く。

誰もが千尋を慕い、共にいたあの時。
千尋が自分を選んだのは、奇跡に近かった。
だが、今千尋の傍らにいるのは自分。
その幸福を噛みしめるように、そっと千尋の唇に口づける。

「ん……」
身じろぎする千尋にくすっと笑みを漏らすと、睦み合ったまま素肌で眠る千尋にそっと寝具をかける。
王の千尋はぴんとはりつめた空気を纏う威厳ある女王、アシュヴィンと睦み合う千尋は何度肌を合わせても、いつまでも初心で恥らう可愛らしい妻。
そして今傍らで眠る千尋は、まるで赤子のようにアシュヴィンに全てを委ねて安心していた。

「お前はいくつもの顔で俺を惹きつけるな」
苦笑を漏らして、眠る千尋に寄り添う。
夜明けまではまだしばらくの時がある。
この至福の時を少しでも長く味わおうと、アシュヴィンは千尋を抱き寄せ、瞳を閉じた。
Index Menu ←Back Next→