赤いチューリップ

景望11

すっかり恒例となった景時の邸での勉強会。
今日も必死に歌の勉強をしていた源氏の武士たちは、休憩にと望美と朔が運んでくれた茶に緊張をほぐすと、ほおっと羨望の吐息をついた。

「梶原殿は素晴らしい奥方と妹御をお持ちで、本当に羨ましい限りですな」

「歌の才もあって、鎌倉殿の信頼も厚い。天は二物を与えずと申しますが、梶原殿には当てはまらぬらしい」

「い、いやぁ~持ち上げすぎです。俺の歌の才などたいしたものじゃありませんよ。それに望美ちゃんは俺の奥……」

「何を仰います! 梶原殿が作られた歌は、京の貴族をもうならせたのですよ。こうして時間を割いて教えていただけること、本当にありがたく思っているのです」

口々に感謝の念を伝えられ、景時は照れくさそうに鼻をかきながら、さえぎられた言葉に苦笑いする。

春日望美。
龍神に選ばれ、異界から舞い降りた白龍の神子。
黒龍に選ばれた妹の朔よりも年下で、戦のない国から来た彼女は、しかし自ら剣を取り、逃げ出そうとする景時を励まし、前を共に見つめさせて、彼が望んだ未来を切り開いてくれた。

茶吉尼天の監視がなくなり、西の管理を任された景時は、以前の殺伐とした生活から解き放たれ、京に居を移して平穏な日常を過ごしていた。
穏やかで、泣きたくなるほど幸せな日々。
そして隣りには、常に望美の姿があった。

洗濯をする時やご飯を食べる時傍らに望美がいること、ずっと望んでいた平和な暮らしを彼女と共に送れることが、いまだに夢じゃないかと思う。
現実だと思っている今が夢の中で、自分はいまだに頼朝の命で仲間の命を奪い続ける暗殺者のまま。
そんな不安は絶えず心の奥にあって、一人悪夢に目覚めることも度々だった。

「…………っ」

悲鳴を喉の奥に飲み込み、飛び起きた景時は、真っ暗な室内に現状を確認すると、ため息をついて身を起こす。
こうなるともう眠れないのは経験済み。
湯帷子の上に羽織ると、静かに庭に出た。
時刻は真夜中。
邸内はしんと静まり返り、人の気配は感じられない。
きっと、望美も眠っているのだろう。

「奥方、か……はは」

この世界に残った望美に、周りは景時と彼女が婚姻を結んだと思っているようだが、実際は以前と何ら変わらない関係だった。――表面的には。
景時の想いは、神子と八葉という関係を通り越した、一人の女性に対するもので、望美の想いもまた、景時のそれと同じなのだろう。
けれども、景時は一度も自分の想いを口にしたことがなかった。
否、できないでいた。
手にした日常は、景時が思いを告げた瞬間にも崩れ去ってしまう砂の城のように思えていた。
拭えない、決して消えない罪故に。

「――景時さん」
ふいにかけられた声にびくりと肩を震わすと、とっさに笑顔を張り付け、望美を振り返った。

「わっ、びっくりした。どうしたんだい? こんな遅くに」

「景時さんこそ、寒いのにどうしてこんなところにいるんですか?」

「俺? 寝相が悪かったみたいで掛け布蹴とばして寝てたら、寒くて目が覚めちゃってさ。
外に出てみたら月が綺麗だったから、つい見惚れてたんだ。でもずいぶん肌寒くなってきたよね」

う~寒いと肩を震わせ、邸内に戻ろうと望美を促すと、背中から抱きつかれ。
伝わるぬくもりに鼓動が跳ね上がり、慌てて後ろを覗き見た。

「ど、どうしたの? 望美ちゃん」

「私がこの世界に残ったことを、景時さんはどう思っていますか?」

「どうって、そりゃ嬉しいなぁ、って……」

「どうしてここに……景時さんの傍にいると思います?」

まっすぐに向けられた翡翠の瞳に、のらりくらり軽口でかわすことを許さない意志を感じて息をのむ。
望美がこの世界に残ったこと。
その意味を考えなかったわけじゃない。
それでも、あえて聞くことをしなかった。
それはただ、景時の臆病な心ゆえ。

頼朝の命に従い、多くの仲間を手にかけてきた穢れた自分が、清らかな望美を求めることなど許されない……そう思っていた。
それでも苦しくて、逃げたくて、救いを求めて手を伸ばしてしまった。
そしてその手は振り払われることなく、景時を明るい光の中へと導いてくれた。
穏やかな日常。
その日々の中、傍らで微笑んでくれる柔らかな存在を失いたくなくて、望美が景時の気持ちを問わないことをいいことに、ずっと明言することを避けていた。
そんな景時に、ついに望美が業を煮やしたのだった。

「私は、景時さんが好きです。景時さんの傍にいたくて、この世界に残ったんです。景時さんも同じ気持ちじゃないんですか?
それとも景時さんにとって私は神子のままですか? 朔の友達?」

「望美ちゃん……」

「迷惑なら振りほどいてください。景時さんの気持ちが知りたいんです」

向けられる好意。
求められる想い。
熱くて、まっすぐで、激しく心を揺さぶられる。
俺も君のことが好きだよ。
そう言ってしまえたらどんなにいいだろう。
それでも、それは景時には許されないことだった。

「俺は……君の隣にいていい人間じゃないんだよ」

「どういうことですか?」

「君も知ってるよね? ……俺の手は血に濡れている。今まで俺がやってきたことを知ったら、君は俺を好きだなんて言えないよ」

向けられる怨嗟の瞳が怖くて、遠く離れていても役目を果たせる銃を作った。
臆病で、卑怯者。
清らかで、どこまでも優しい望美を求める資格なんてあるわけがない。

「自分だけが穢れてるなんて……どうして決めつけるんですか。私が景時さんを知らないなら、
景時さんだって私がどんなに身勝手な人間か知らないんです」

「望美ちゃん?」

「私は白龍に選ばれただけで、向こうの世界じゃただの学生です。特別な存在なんかじゃない。
人を……傷つけたことだってあります。聖人なんかじゃないんです」

翡翠に浮かんだ暗い光。
それは時々感じていた望美に宿る陰。


「君は……どうしてそんなに俺なんかを……」

「俺なんか、なんて言わないでください。私が好きになった人を、たとえ景時さん自身でもそんなふうに言ってほしくない。
強さも、弱さも、優しさも、悩みも持ってる景時さんだから、私は好きになったんです」

胸に回された腕は絶対離さないと強く抱きついて、背中に感じるぬくもりが振りほどく力を奪い去る。

「……俺から振りほどくなんてできないよ。君を離したくないと思ってるのは、俺なんだから」

回された手に指を絡めて、重ねて。
心の中で白旗を振る。
本当はとっくに心は決まっていた。
望美を手放すことなどもうできはしないのだから。

「ねえ、望美ちゃん。ずっと、俺の傍にいてくれる? 一緒に洗濯して、笑いあって、移り行く季節を共に感じていきたい。ずっと、俺の隣にいてほしいんだ」

ずっと抱いていた想い。
それを言の葉にすると、ぽつんと手の上に雫がこぼれ落ちて。
それが望美の瞳から溢れたものだとわかった瞬間、身体の向きを変え、涙を流す望美を抱き寄せる。

「いいかな?」
「そんなの……決まってます……っ」

ずっと聞きたかった――望美の呟きに、互いの想いが重なり合うのを実感する。

「――俺と、結婚しよう。君が好きなんだ」

ずっと言えずにいた想いを口にすると、小さな頷きが返って。
優しくその頬を拭うと、誓いを唇に落とした。
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