「景時さ~んっ!」
怒りを帯びた声と共に、ドダダダダッとすさまじい足音が耳に届き、景時は顔を強張らせた。
ぴしゃん! とものすごい勢いで戸を開け、現れたのは彼の愛しい奥方である望美。
「ど、どうしたのかな~? 望美ちゃん?」
「どうしたのかな? じゃありませんっ!
また知らないうちに術をかけましたね?」
じとっと睨まれ、景時が乾いた笑いをこぼす。
望美が怒っているのは、景時が内緒でかけた陰陽術。
愛妻を心配するあまり、彼女に悪い虫が寄りつかないようにと、寝ている間などにこっそり術を施している景時。
それを知らない望美は、月に数回通っている六条堀川の九郎の邸で、従者を昏倒させるという被害を巻き起こしてしまったのである。
「あの男の人は、私の髪に毛虫が落ちたのをとろうとしてくれただけなんですよっ!? それなのにあんな……っ!!」
従者が望美に近づいた途端、突然電流のようなものが流れ、彼は昏倒してしまったのである。
実はこうしたことは、今回が初めてではない。
いくら言っても懲りない景時に、ついに望美の勘忍袋の緒がぶち切れたのである。
「今日という今日は許しませんよっ! しばらく朔の部屋で寝かせてもらいますっ!」
言い渡された『共寝拒否』に、景時の顔からザーッと血の気が引く。
「わ、悪かったよ。謝るから、それだけは勘弁してっ!」
「ダメですっ!」
つーんとそっぽを向く望美に、景時ががくりと肩を落とす。
「一日の仕事を終えて望美ちゃんと一緒に眠りにつくことが、俺の唯一の至福の時なのに……」
さめざめと呟く景時に、望美がちらりと覗き見る。
反省している――ように見えるが、ここで甘やかしては同じことの繰り返し。
そう自分に言い聞かせて、思わずほだされそうになるのを懸命にこらえる。
「そんなこと言ってもダメなものはダメです。
もう二度と私に術をかけたりしないって、本当に約束できるまでは一緒に寝ません」
「そ、そんな~」
尻尾が垂れているかのような、哀愁溢れる姿に、望美がうっと言葉をつぐむ。
「……その姿は反則だよ」
はぁ~とため息をついた望美に、景時がぱあっと顔を輝かせる。
「じゃ、じゃあ、今日も一緒に寝てもいいっ?」
「……術をかけないって誓ってくれるなら」
望美が頬を膨らませてじとりと見つめると、ぶんぶんと首が取れそうなほどに大きく頷く。
「あ~柔らかいな~。やっぱり望美ちゃんにいつでも触れてないとダメなんだよね~、俺」
「私は抱き枕じゃありませんからね」
「もっちろんだよ~。こんな柔らかくて、暖かくて、いい香りの枕なんてないもんね~」
ご機嫌で話す景時に、望美が頬を赤らめる。
「……景時さん。新婚ボケしすぎです」
「そうかな~? ま、いいでしょ♪」
実は時々、弁慶からも黒い笑顔でグサグサと小言を言われていたのだが、どこ吹く風の景時。
愛しい妻を抱き寄せて、今日もご満悦で眠りについた。
「……時さん……景時さん」
「……ん~?」
ゆさゆさと肩を揺らされ、景時が重い瞼を開ける。
「望美ちゃん? もう怒ってない?」
「はい? 何言ってるんですか? もしかして景時さん、寝ぼけてます?」
新妻の反応に、景時は靄がかった頭を必死に動かし始めた。
「望美、兄上は起きたかしら?」
「あ、朔。うん。今起きたよ」
「もう、兄上ったら10時過ぎていますよ?」
「朔~? あれ~?」
現れた妹がまとっている衣装に小首を傾げると、呆れたため息が返ってきた。
「いくら休日とはいえ、気が緩み過ぎです。顔でも洗ってシャキッとしてください」
いつものように小言を告げると、妹は兄夫婦に背を向けリビングへと引き返して行った。
「さ、お母様も待ってますよ。先に行ってるので、着替えてきてくださいね」
着替えを差し出し、にこりと微笑んだ望美に、景時はへら~と幸せぼけした笑顔を返した。
望美が用意してくれたストライプのシャツにジーパンというラフな格好に着替えると、洗面所で顔を洗い、リビングへと歩いて行く。
そう、ここは住み慣れた京ではなく、望美が生まれ育った異世界。
迷宮を解いた時、京へ戻ろうとした景時を引きとめたのは望美だった。
景時も本心では望美と共にいたかったが、京に一人残してきていた母のことが気がかりで、この世界へ残るという決断を下せずにいたのだ。
そんな景時の本心を見抜き、それならば母や朔も一緒にと白龍に願い、この世界で暮らせるようにしてくれたのも望美であった。
リビングの扉を開けると、母や妹、そして誰よりも愛しい少女の笑顔が向けられて。
それは夢のように平和で、穏やかな光景。
京にいた頃の殺伐とした生活が信じられない、涙が出そうになるぐらい愛しい光景だった。
「景時さん? 朝ご飯冷めちゃいますよ~?」
「おはよう、景時」
「兄上、手間をかけさせないでください」
彼の大切な者たちからの呼びかけに、景時は感傷を振り払うと笑顔で歩み寄る。
愛しい者たちのいる光溢れた眩い世界へと踏み出すために。