「どうしたの?」
「ああ、ちょっと厄介事が持ち上がってね」
「熊野で何かあったの?」
「熊野というよりは俺個人に、かな」
「ヒノエくんに?」
不意に現れた熊野烏と席をはずしていたヒノエが、珍しく気難しい顔で戻ってきたのに声をかけると、ふう、と吐きだされたため息。
「君も年貢の納め時ということではありませんか? 兄さんも君がずっとふらふらしていることを気にしてましたよ」
「美しい花は世にたくさん溢れているからね。1つになんて決められないね」
「何の話?」
二人のやり取りの意味がわからず首を傾げると、そうだとヒノエが口角を上げた。
「ねえ、望美。前に九郎の許嫁のふりをしたことがあったね」
「え? ああ、雨乞いの儀の時のこと? あれは九郎さんの方便で……」
「今度は俺を助けてくれないかい?」
魅惑の笑みを浮かべたヒノエの説明に、望美は
ええっ! と驚きの声を上げ、彼を見た。
「許嫁!? 私がヒノエくんの?」
「そう。俺としてはそのまま真実にしてもいいけどね」
「冗談はともかく……私なんか許嫁って言っても、相手が納得するわけないよ」
「そうでもないぜ。見合いの話は以前からあったけど、望美が熊野を訪れてる間はぴたりと止まっていたからね」
「なるほど……白龍の神子の噂ですね」
「弁慶さん?」
「勝浦を訪れた時、行商の女性が『熊野の頭領が白龍の神子に一目惚れしたらしい』と話していたのを覚えていませんか?」
「――あ」
確かに、そんな噂を耳にしたことはあった。あったが――。
「あれは、勝手に白龍の神子をおしとやかなお姫様と勘違いしてただけですよ。実物を見たらすぐにばれちゃうよ」
「そんなことないさ。麗しい姫君に『頭領』は十分魅了されてるからね。それに、その噂を聞きつけた連中がこぞって真偽を探ってね。
相手が龍神の神子じゃ叶わないってしばらくなりを潜めてたんだよ」
独り歩きしている神子の名に望美が複雑そうな顔をすると手を取られ、恭しくその手に口づけられた。
「ヒ、ヒノエくん!?」
「俺としてもせっかくお前についてきたわけだし、このまま熊野にとんぼ返りするのは勘弁したいんだけどね。この話をどうにかしないことには、同行も難しくなる」
「う……」
熊野水軍の力は得られなかったが、ヒノエが同行してくれたことは嬉しく、それが失われることは惜しくて、望美は唸り悩む。
「……いいのかなぁ」
結局は嘘をつくことになるのだ。
望美が渋い顔をしていると、「なんだ、どうかしたのか?」と九郎がやってきた。
「あ、九郎さん。実は……」
「――ヒノエの許嫁!? お前がか?」
「………はい」
驚く九郎に、望美は事の成り行きを説明する。
「いいだろう? お前と望美の仲は方便なわけだし、問題ないだろ?」
「……っ、それは……」
からかいを含んだヒノエの言葉に、言い返せず黙る九郎に、考え込んでいた望美は諦念の表情でヒノエを見た。
「嘘をつくのはいいと思わないけど、したくもない結婚はどうかと思うし……私でいいなら引き受ける……」
「――だめだ」
重ねられた低い否定の声に振り返ると、真剣な顔をした九郎。
「軽々しく許嫁など名乗って、方便だったなど許されるわけないだろう」
「九郎さんだって方便で私のこと、許嫁だって言ったじゃないですか」
「揚げ足を取るな。あの時はああいうしかなかったのだから仕方ないだろう」
「だったら今回だって同じじゃないですか?
このままだとヒノエくん、お見合いで熊野に戻らなくちゃいけなくなるんですよ」
「恋人の役など、お前でなくともあいつなら他にいるだろう」
「やっぱり偽りとは言っても、自分の許嫁が他の男のものになるのは面白くないってことかい?」
「そうじゃない! だいたい俺はこいつを女だと思ったことなどないからな」
ヒノエの挑発に九郎がムキになって返すと、ムッとする望美。
確かに許嫁は、後白河院に召し抱えられそうになった望美を救うためについた方便だったが、九郎の物言いはあんまりだろう。
「私だってどうせ許嫁になるなら、意地悪な九郎さんよりヒノエくんの方がいいです!」
「な……っ! ――とにかくだめだ! 方便であっても後白河院の前で俺の許嫁だと紹介したんだ。熊野は院もよく訪れる。万が一にもその耳に入ってはまずいだろう」
「どっちの許嫁も方便だからいいんじゃないですか?」
「方便だからいいというものではないだろう! そもそも女性が軽々しく男を変えるなどはしたないだろう」
「軽々しいって、私が自分で名乗ってることじゃないじゃないですか!」
「名を貸すのだから同じことだろう」
いつものように言い合いに発展する二人に、やれやれと肩をすくめる弁慶とヒノエ。
「望美さんに頼むのは諦めた方がいいようですよ」
「なんで俺が九郎に遠慮しなくちゃならないんだよ……と言いたいとこだけど、馬に蹴られるのは勘弁かな」
喧嘩するほど仲がいい、を体現している二人。
本人たちはどう思っているかわからないが、はたから見れば仲の良い恋人たちのやり取り以外の何物でもない。
続く言い合いに、弁慶たちは付き合いきれないとその場から離れていった。
「――とにかく、お前は俺の許嫁だ! ヒノエとの話はなしだ!」
「嫌です。方便の許嫁に拘束されるいわれなんかないですから」
「……方便じゃなければいいんだな」
「え? …………九郎さん?」
低くなった声に、掴まれた腕。
強引に引かれ、連れていかれたのは景時の邸ではなく、九郎が使っているらしい邸。
驚く望美が腕を引かれるまま部屋に入ると、突然目の前が橙色に染まった。
呼吸がうまくできず、息苦しさに目がかすむ。
その色が九郎の髪の色だと認識した瞬間、身体が浮いて固い床に背をつけていた。
「九郎さん……?」
「方便じゃなければいいと言ったのはお前だ」
「そんなこと……っ! ……んん……っ」
再び塞がれた口。九郎にキスされている事実に、頭が混乱する。
(方便じゃなければってどういうこと?
なんで九郎さん、こんなこと……)
「望美……」
熱い、吐息。
身体が、震える。
一瞬離れても再び重なって、永遠のように続くキス。
こんな九郎の声は知らない。
甘い、体の芯からとろけさせるような、艶めいた声。
何もかもが現実離れしていて混乱する望美に、しかし九郎がこの行為をやめることはない。
たどたどしく解かれる結び目。逃げる帯。
触れられた肌が熱くなって、震えて。
「はっ……ぁ……」
「望美……」
こぼれる嬌声に、繰り返されるキス。
いたわるように、愛おしげに。
貫かれた痛みに望美が涙をこぼしても、甘い囁きとキスがやむことはなく、望美は自分を抱く男の背を強く掻き寄せた。
* *
「……………」
「……………」
互いに衣を身に纏って、流れる沈黙に九郎は苦く眉を歪める。
売り言葉に買い言葉とはいえ、仲間である望美を強引に抱いた。
その事実が重くのしかかって、どう声をかけていいかわからなかった。
「――九郎さん」
「……っ、なんだ?」
「私のこと好きですか?」
「…………は?」
「そんなわけない、ですよね」
落ちた声に、一瞬呆けた九郎は慌てて望美の肩を掴んだ。
「俺が好きでもない女を抱くか!」
「だって、さっき言ったじゃないですか……!」
「……っ、女として見たことがないと言ったのは訂正する。お前の気持ちを考えずに、強引に抱いたことも謝ろう。俺は一時の感情でお前を抱いたわけじゃない」
「じゃあ……」
「――お前は俺の許嫁だ。だから方便でも、他の男の許嫁なんかになるな」
好きだと告げてくれたわけではないが、その想いは確かに伝わって喜びがわきあがる。
「九郎さんの、バカ」
「な……っ」
「順番逆ですよ」
「う……」
「私も、好きです」
九郎の胸につけていた顔を上げると背伸びして、自分から口づける。
「お、お前……っ」
「はしたないはなしですよ?」
「……わかっている!」
ぐっと黙り込むや手を引かれ。重ねられた唇に、確かな想いを交し合った。