約束

九望26

(奇襲は成功したし、官位も辞退した。これであの時とは違うはず)

脳裏に蘇る記憶にギュッと胸元を手繰ると、一つ一つ思い返す。
この前の時空で九郎は平家を退けた褒美として後白河院から官位を授けられ、それによって頼朝の怒りを買って処断されてしまった。
だからその原因となる官位を辞退させた今はもう大丈夫なはず。
そう思うのに不安は消えなくて、望美はどんどん膨れ上がってくる不安に知らず浅い呼吸を繰り返していた。

「望美、今いいか? 話があるんだが」
「……九郎、さん?」

呼ばれて顔を上げるがなんだか息苦しく、呼吸も乱れてしまう。

「どうした。具合が悪いのか?」
「大丈夫……です……」

そうは答えても息苦しさは増すばかりで、手も痺れてきて、ふらりと身体が傾いだ。

「望美!」
「――九郎さん? どうかしたんですか……先輩!?」
「弁慶! いるんだろう、来てくれ!」

九郎のただならない様子に、通りかかった譲が慌てて駆け寄り、その声を聞きつけた弁慶がやってくる。
その間も望美の苦しさは増すばかりで、どうしていいかわからずに、傍らの九郎の袖を掴む。

「望美さん、どこが苦しいですか?」
「息……苦しい……」
「九郎、望美さんがどこか怪我をしたりはしてませんね?」
「そのはずだがわからん。俺が来た時には顔色が悪くて、今のように苦しみだしたんだ」

症状や脈など手早く診ながら九郎から状況を聞き取る弁慶に、譲はハッとすると朔に声をかける。

「朔、布袋はないか?」
「あるわ。待っていて」
「譲くん? どうして布袋が必要なんですか?」
「先輩の症状ですが、もしかしたら過呼吸を起こしているのかもしれないんです」

弁慶の疑問に答えながら朔から布袋を受け取ると、望美の口にあてて様子を見る。
弁慶も知らぬ対処法に固唾を飲んで皆が見守る中、苦しんでいた望美が何度か呼吸を繰り返すうちに次第に落ち着きを取り戻し、自分から布袋を口元から避けた。

「先輩、大丈夫ですか?」
「……うん。ありがとう譲くん」
「いえ……他に症状はありませんか?」
「手がちょっと痺れてる、かな」
「望美さんも落ち着いたようですね。譲くん、過呼吸とは何か教えてもらえませんか?」

望美の体調の変化を確かめてから譲に問う弁慶に、先程の対処について説明する。

「――なるほど。呼吸のしすぎですか」
「はい。だから自分の呼気を袋でもう一度吸うとおさまるんです。ですが手足の痺れはまだしばらくは残るので、今日は安静にしていてください」

後半の言葉は望美に向けられたもので、確かに残る痺れに否は言えず、部屋に戻るために立ち上がろうとした瞬間、ふわりと身体が浮く。

「九郎さん!?」
「まだ体調が戻らないのだろう? 部屋まで連れていく」
「大丈夫です、歩けますから!」

力の抜ける感じはあるものの歩けないほどじゃないと降りようとするも、そんなに慌てるとまた症状が戻ると叱られ、渋々大人しくする。

「まったく……具合が悪いなら素直に言え」
「急に調子がおかしくなったんです」
「……先の戦では無理をさせたからな。お前の不調に気づかなかった俺の落ち度だ」
「そんなこと……!」

違うと首を振るも、体調を崩した今の状況では説得力もなく、情けなさにため息をつく。

(なにやってるんだろ……私)

過呼吸。昔、体育祭の練習でその症状を起こした同級生がいて聞いたことはあったが、まさか自分がその症状を起こすとは思わなかった。

(あれって激しい運動で呼吸をしすぎて、二酸化炭素が足りなくなるとかじゃなかったっけ?)

今、望美は激しい運動などしていなかったのに何故なったのか?
実は過呼吸は運動などで起こる場合と、精神的なもので起こる場合とあるのを望美は知らず、先程の出来事は後の方の理由だった。
九郎の運命を変えようと時空を遡った望美は、福原での奇襲を成功させた後に、処断の原因となった官位を辞退させた。
けれども、もしまたあの運命を辿ってしまったらと不安は拭えず、それが望美に大きな負荷としてのしかかっていたのだ。
絶えず頭にあるのは、この選択は間違っていないか。九郎が生きている運命にたどり着けるのか、ずっと問いを繰り返していた。
いくら時空を遡れるといっても、だから違えていいなどと思えるはずもない。
今この瞬間も皆生きているのだから。
きゅっと手を握りしめると、ふと感じた鼓動。
トクトクと、規則正しく刻まれる鼓動は九郎が確かに生きている証で、胸に寄りかかるとそのリズムに耳をすます。

(九郎さんは生きてる……。もう絶対あの運命は辿らせない)

頼朝に対して嘆く悲痛な声。
捕らわれた牢で託された腰越状は、けれども頼朝が受け取ることはなかった。
あの時空での痛みを思い出して眉を寄せると、僅かに抱き上げる腕に力が入ったように思えて見上げると、前を向いたまま「望美」と名を呼ばれる。

「お前が何を気に病んでいるのかわからないが、お前一人支えられないほど俺は頼りないか?」
「そんなこと……っ!」
「だったら頼ってくれ。一人で抱えて苦しむお前は見たくないんだ」
「九郎さん……」
「俺は機微には疎い。だが、頼ってくれればそれを捨て置いたりはしない」

真っ直ぐな言葉は彼そのもので、スッと心に射し込んで迷いこんだ気持ちを掬い上げてくれる。
九郎のことが好きなのだと自覚して、余計にこの運命は正しい方へ進んでいるのか不安だった。
けれどももう迷いはしない。求めるものはただ一つ。彼が生きて、幸せになれる運命なのだから。

「九郎さん約束してください。絶対死なないって。生きるって」

真っ直ぐに見上げて告げれば、驚いたように見開かれた瞳がフッと緩む。

「もちろんだ。言っただろう? お前の世界を見てみたいと」
「はい。絶対一緒に行きましょうね!」

今まで頼朝しか見てこなかった九郎が、望美の世界を見てみたいと言ってくれた。
その事が望美に未来を切り開く力を与えてくれるから。
トクトクと、規則正しく刻まれる鼓動に耳を寄せて。絶対に彼が生きる運命にたどり着いて見せると、思いを新たにした。

20190705【リクエスト:過呼吸】
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