天つ路

ヒノ望54

澄んだ水面に映る月明かりがまるで道のようで、惹かれるように足を踏み出そうとして、ぐいっと後ろから抱き止められる。

「ヒノエくん?」
「泳ぐには冷た過ぎると思うよ、俺の奥方殿」

確かに夏は終わり、夜ともなれば肌寒さを感じるようになっていたから、水に入るのは無理だろう。
当然望美にその意思はなく、ただあまりに綺麗でつい足が向いただけだった。

「お前を夜の散歩にと思ったけど、今日はやめておこうか」
「え? どうして?」
「女が身体を冷やすもんじゃないからね。俺の姫君が活発だって忘れていたよ」
「水に入るつもりはないよ?」

別当として日中忙しなく働くヒノエとこうして二人でゆったりした時間を持つのは難しく、久しぶりのデートに舞い上がっていたから、突然の中止宣言に慌てて否定する。
なのに絡む腕は離れる気配はなく、まるで望美がその先に進むのを塞いでいるようで、水面に視線を移してああ、と納得した。

「私は天上には行かないよ」

望美のいた世界をそう称するヒノエに合わせると、ピクリと僅かに肩が揺れる。
別当として感情を容易に悟られないよう、セーブする術を知っている彼を揺らすもの。
それが望美であり、水面に映る道のような月明かりだった。

「あの子達もいるし、何よりヒノエくんがここにいるもの」

平家と決着がついた後、望美がこの世界に残って熊野に嫁いでから数年が過ぎていた。
その間に子が生まれ、ヒノエと家族を持った。
これで私がどこに行くというのだろう。
異なる世界で生きる両親や友達、戻っていった譲が恋しくないわけではない。
それでも、この「道」は彼らに繋がってはいないし、もし繋がっていたとしてもそれを選びはしない。
「あの時」にもう決断したのだから。

「……そうだね。海を前にして惚れた女を案内しない男は熊野にはいない」
「そうだよ。だから意地悪言わないで」
「すまないね。お詫びに極上の一時を約束するよ」

声に乗った艶に思わず身体が逃げの態勢を取ろうとするも、しっかりと後ろから抱き寄せられていてそれも叶わず、望美はそろりと視線を向ける。

「えと、程々でお願いします」
「ふふ、どうかな。極上な花を前にして手加減なんて野暮だと思うけど」
「野暮じゃないから!」

昔、こうして幾度と腰を立たなくされて、半日寝たきりにさせられたことを思い出してブンブンと首を振って拒否すると、背後から笑みがこぼれる。
その様子はすっかりいつもの彼だったから、ほっと胸を撫で下ろすとゆるりと背を預けた。

海の向こうの大地から金銀瑠璃など様々な宝を運ぶ熊野水軍だから、ヒノエもあれやこれやと贈ってくれるけど、望美が欲しいのはヒノエただ一人。
他に飛んで行きたいわけじゃない。
ヒノエにとっての港が望美なら、望美にとってのそれもまたヒノエだった。
自分がいる場所。
いたいと願う場所。
それがここ熊野で、ヒノエの隣なのだ。
手を引かれ、歩きながらヒノエを見る。

「いい男で見惚れたかい?」
「そうだね」

同意を示すと軽く目が見開かれて、トロリと昔よりいっそう増した色気が彼を包む。
ああ、口が滑った……と思っても後の祭り。
月明かりに照らされ、ゆらゆらと揺られて、潮風に喉を痛めて子ども達に心配されるのは朝のことだった。

20210519
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