水面に映った道の先は

ヒノ望53

空を見上げていたら、歩み寄る気配に振り返ると予想通りの人がいた。

「ヒノエくん、最近気配を消さなくなったよね」
「麗しい花に惹かれるのを止められなくてね」
「そう」
「……全く信じてないね。本当に手強い姫君だ」

肩を竦めながら隣へやって来たヒノエに、望美は再び空へ視線を移す。
檀ノ浦ーーそれは歴史に疎い望美でさえ知っている平家最期の地。
けれども、必ずしも望美の世界と同じ歴史を辿るわけではないことは、これまでにも何度と経験していた。
それでもここが最終決戦となると、ヒノエも源氏も定めている。
皆が生き残る運命を勝ち取れるかーー自然緊張しているのがわかる。

(弱気になっちゃダメだ。私は決めたんだから)

一人で始まりのときに戻った絶望。
変えたいと、そう願って新たな運命を進んできた。

「望美、見てごらん」
「なに?」

ヒノエの声に意識を内から戻すと、指し示す先を見る。
優雅にかもめが飛ぶ青く澄んだ空。

「風向き良好、空模様も良し。それに俺がいるんだ。負ける要素がないね」
「そこに自分を入れちゃうところがヒノエくんらしいね」

ただの自信家ではなく、これまでも何度となく苦難を彼の策が退けたのを見ているから苦笑すると、もちろんと微笑んでくる。

「お前を口説くのに、そこいらにいる奴と変わらないなんてありえないからね」
「……っ」

『この戦いが終わったら、一緒に熊野に来いよ』

それはヒノエが仲間に加わって間もない頃の紀ノ川で言われた台詞。
口説かれているのだとわかったけれど、そのまま流そうとは思えなくて、考えると約束した。

(戦いが終わったら……)

源平の戦を決着させて、皆が生きる運命を勝ち取る。
それを叶えたならどうするか。
時空跳躍した時には考えもしなかったその先の未来。

(ヒノエくんに応えるのかどうか)

ヒノエの一番は熊野。
それは別当である彼には当然のこと。
だから彼を選ぶということは、元の世界との離別に繋がる。
同じようで違う世界。
空も海も、どこも望美の世界とは繋がっていないのだと、改めて思い心が揺れる。

「ねえ、望美。前に俺に言ったこと、覚えてるかい?」
「! うん。覚えてるよ」
「なら、その時の俺の返事も覚えてるね」

ちょうどその事を考えていたので胸を跳ねさせると、間近な一対の紅玉に息を飲む。
あの時よりももっと熱い、炎のような瞳。
そこにある感情が何かを確かめるまでもなくわかって、どうしようもなく早鐘を打つ。
考えるーーそう言った望美に、ヒノエはその気にさせてみせると豪語した。

「恋死なば 鳥ともなりて 君が住む 宿の梢に ねぐら定めむ」
「え?」

突然の和歌に瞳を瞬くと、その響きに心がざわめく。
意味などわからないのに心の水面を揺らす……そんな感じに、行こうかと身を翻したヒノエの手を思わず掴む。

「望美?」
「え、と」

とっさの行動だったために理由を説明することが出来ず戸惑う。
けれども一人で行かせてはいけないと、そう勝手に体が動いていた。

「……聞いてくれるんでしょ? 私の答え」

戦いが終わったら、その時どうするか。
まだ答えなど出ていないのに、それでも今言わなければいけないと、望美を突き動かした衝動。

「もちろん」

ニッと微笑み、引き止めた手を取ると、指先に唇が触れる。

「ヒノエくんっ?」
「お前に熊野を選ばせるって言っただろ?」

一瞬にして赤く染まった頬に、不敵に微笑み手を離したヒノエに、寂しさがよぎったのも束の間。
繋ぎ直された手が共にと導く。

「お前に勝利を捧げるよ。熊野別当、藤原湛増の名に誓って」

ゆらゆら、揺れるその思いが、明確な形に変えていく。
最終決戦に向かう船の中、水面に映った月明かりが照らしていた道は、きっと熊野に繋がっていたのだろう。

「でもあの時のこと、本当に怒ってるんだからね」

清盛が逃げた時、一人でその後を追おうとしたヒノエ。
草薙剣に対抗する術を用意するであろう清盛に、危険だとわかっていたのに、たとえ戻ってこれなくとも……そんな覚悟を抱いていたのを後から知って憤ったのだ。

「すまなかったね。未練たっぷりで死ぬ覚悟なんてするもんじゃなかった」
「当たり前だよ。私を熊野に連れていくって言ったのに、ヒノエくんがいなかったら意味ないんだから」
「情熱的だね。惚れた女にそこまで言われたら、男冥利に尽きるってもんだ」

眉をつりあげると、愛しさをこめた微笑みに、けれども誤魔化されないとばかりに顔を背けると、ゆるりと身を引き寄せられる。

「あはれとも いふべき人は思ほえで 身のいたづらに なりぬべきかな」
「歌で誤魔化してもダメだよ」
「とんでもない。お前に嫌われたら、とても生きてはいけないからね」
「嘘ばっかり」

熊野に嫁いで、別当奥方としてヒノエに迷惑がかからないようにと、読み書きを学んだ今では、和歌の意味も大まかにはわかるようになっていた。
だからあの時の歌の意味も、実は覚悟しているのだと告げていたのがわかって、余計に腹が立ったのだ。

「あづさ弓 引けど引かねど昔より 心は君に よりにしものを」

和歌をそらんじると、一瞬虚をつかれたヒノエがニヤリと笑う。

「俺は帰りを待たせて諦めさせる不甲斐ない男になるつもりはないね」
「そうしてたらこの女の人みたいに、他の人に嫁いでいたかもね」

そんなことは考えられないが、腹が立っていたのでつい意地悪いことを言ってしまうと、耳に唇が寄せられる。

「俺よりいい男なんているのかい?」
「月の世界にならいるかもよ?」

息を吹き込むような囁きに身を震わすも、負けじと言い返すとふわりと体が浮く。
押し倒されたのだと、視界いっぱいに映るヒノエの姿に頬を膨らませかけて、その瞳に揺らぐ色に失言を知る。

「それなら天の羽衣を隠して、月へ行く道を塞がなきゃね」
「そんなの持ってないよ」

かぐや姫に重ねて望美を天つ乙女と呼ぶヒノエが恐れていること。
逆鱗の存在を知らない彼だけど、異なる世界から喚ばれたことは知っているから、いつか望美が目の前から消えてしまうのではないか……そう不安を抱いていることを知っていた。
だからその憂いは不要だと伝える。
たとえ天の羽衣があろうと、望美がヒノエのもとを離れることはない。
彼の傍にと、選んだのは望美なのだから。

「ない羽衣を探すよりも、私を繋ぎとめて」
「姫君の望むままに」
「もう、『姫君』はいいよ」
「そうだね、俺の愛しい奥さん」

重ねた唇はあたたかく、憂いは晴れたのだと安堵するも、衣を紐解く手は止まらない。

「ちょ、ヒノエくんっ」
「俺がどれだけお前を愛しているかわかってもらいたくてね」
「わかってるから!」

そう言っても火に油を注いだのは望美で。
翌朝の奥方の目覚めが昼近くになったのを、邸のものたちは微笑ましく見守るのだった。

2020.11.7
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