「ただいま」を君に

ヒノ望44

潮騒響く朝焼けの中にヒノエはいた。

『本当にいいの? 私が元の世界に帰っちゃっても?』
浮かんでいたのは驚きと―――悲しみ。
それでも、ヒノエは元の世界へ彼女を戻した。
――月の姫には帰るべき世界がある。
そのことに気づかずにいれたのなら、望美をこの世界に引きとめられた。
けれども、熊野で望美の秘めた郷愁の想いを知ったヒノエは、元の世界に帰すことを選んだ。

「でもお前を諦めたんじゃないんだぜ?」

今はいない彼女を想い描いて微笑むと、傍らの桜の枝に触れる。
春を告げる薄紅の蕾。
源平の戦に終止符を打ち、天女がこの世界を去ってから半年余り。
熊野に戻ったヒノエは、めまぐるしい日々を過ごしていた。
戦が終わればそれで終わりではない。
火種はいつでもあるのだから。
熊野を守るため、ヒノエはあらゆる可能性を考慮し打てる手をうった。
あとは―――彼女をこの手に取り戻すだけ。

胸元から取り出したのは、淡く輝く龍の鱗。
それは別れの日にこっそり望美から拝借したものだった。
目をつむれば鮮やかによみがえる愛しき女の姿。
ふわりと揺れる髪の感触……甘い残香。
全てが記憶に新しかった。

「こんなにも俺の心を捕らえるなんてお前にしかできないんだぜ?」

だから、強く想う。
彼女のことを。
願う……彼女の元へと。

* *

目を開けた時、そこは見知らぬ場所だった。
驚くほど高い建物。
走る箱。
見慣れぬ衣装を身に纏う人々。

「ここが天女がいる月の世界か」
ふうん、と微笑むとゆったりと辺りを見渡す。
白龍の気の利いた贈り物か、己の衣装もまたこちらのものへと変わっていた。

「願いが聞き入れられたのなら、そう遠い場所でもないんだろう」

呟きもう一度視線を前に向けた瞬間、額が熱く疼いた。
その懐かしい感触は、かつて彼女を守る八葉だった証。
ふと視線を移すと、こちらに向かって歩いてくる一人の少女が目に入る。
それはずっと、この胸を焦がし続けたただ一人の―――ヒノエの天女。

「……あ、今の人もちょっと似ていた?」
幻を追うようにぼんやりとヒノエの姿を映していた翡翠の瞳に、驚きが広がっていく。

「――似てるなんて……」
「こんにちは、お嬢さん。誰をお探しかな?」

微笑み、ゆっくりと歩み寄る。
向こうの世界とは違う、見慣れぬ衣を身に纏っていたけれど、見間違うはずもなかった。

「よければ教えてくれないか」
「ヒノエくん……」
「俺みたいないい男はそんなに何人もいないだろ」

信じられないと、瞳を見開く望美の頬にそっと触れる。
ああ、ずっと胸に描いていた―――この瞬間を。

「会いに来たよ。待たせたかい?」

「待たせたって? どうして??
どうやって!?」

「そんなに驚くことはないんじゃない?
『待ってな』って言ったじゃん。俺は守れない約束を口にするほど、不実じゃないよ」

「だって……」

「どうやって時空を超えたかって? 姫君を思えば想いが羽根に――って言ったら怒るかな」

「それなら……」

私だって……!、そう続くだろう言葉に微笑んで種明かしをする。

「答えは、白龍の力と……それだけじゃない。
ふふっ、種明かしは高くつくけど、いいのかい」

促す視線にそっと胸元から逆鱗を取り出す。

「あ!」
「種の一つはこれさ。お前の持ってた白龍の逆鱗だよ。勝手に拝借して、すまなかったね」
「ヒノエくんが持ってたんだ……」

失くしてしまったと、ずっと落ち込んでいた逆鱗を実はヒノエが持っていたことに望美が驚く。

「これからもずっと俺に貸してくれると嬉しいんだけど」

「どうして?」

「熊野かお前か、どちらか選べと言われても俺はお前を選べない」

「…………」

ヒノエの答えに顔を曇らせた望美に、ふっと微笑むと両の頬を包み込む。

「どちらかなんてゴメンだね。俺は両方手に入れるよ」
「え?」
思いがけない言葉だったのだろう、目を瞬く望美に不敵に微笑んだ。

「欲しいと思ったものを、俺は諦めたりしない。時空の隔たりなんてお前のためならたやすい壁さ」
そう。たとえ毎日会えなくとも。
再びこの手にお前を抱きしめると、そう誓うから。

「さあ、もっと難しい課題を出してごらん。
その望みを叶えて――驚き喜ぶ、お前の顔を見ていたいんだ」

「ヒノエくん……」

「愛しい姫君。お題をどうぞ」

「そんなの……」

言葉にならず、ヒノエを抱きしめる望美に愛しさがこみ上げる。

「夕月夜 さすやをかべの 松の葉の いつともわかぬ 恋もするかな」
(意:夕方の月の光が射している岡のあたりの松葉のように、時の経つのを忘れるように夢中な恋をすることだ)

「え?」
「お前といると時間も……時空の壁さえ忘れてしまうね」

微笑み、腕の中の望美を見つめる。
離れても消えぬ恋情。
それをヒノエに教えたのは望美。
狂おしいほどに求め、焦がれるのはお前ただ一人だから。

「お前が……欲しい」
囁いて、涙に濡れる唇を奪った。
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