極上の果実

ヒノ望37

ザァ……ザァ……。
繰り返す波音だけが響く小舟の上で、ヒノエと二人だけで過ごす。
こんなふうにゆったりとした時間を過ごすのは
久しぶりで、彼の腕の中で望美は穏やかに時が流れるのを感じていた。

『近く感じるのは、海だけじゃないだろ?』

冗談のようにそう言って彼は笑ったが、ここの
ところヒノエの仕事が忙しく、二人きりで出かける以前にこうして触れ合っていなかったと、そのぬくもりに頬を寄せると、優しく髪を指が梳く。

「今日は本当に情熱的だね。……寂しかったかい?」
「甘えたいだけだよ。……嫌?」
「まさか。いつでも大歓迎だ」

微笑み抱き寄せる腕は望美の本心を見抜いているのだろう。
やっぱりヒノエには叶わないなぁとため息をつく。

平家との戦に勝って、熊野に嫁いで。
環境の目まぐるしい変化についていくのに必死な望美を、忙しい合間を縫ってはこうして息抜きにヒノエは連れて行ってくれた。
彼がどれほど多忙かは、別当奥方として傍にいるようになってわかっていたから、弱気なところは見せないように気をつけているというのに、そんな望美の想いを見抜き、巧みに彼女を言いくるめてはこうして手を差し伸べてくれていた。

「ヒノエくんはどうして私を選んだの? ヒノエくんならいくらでも引く手数多だったでしょ?」

この時代は恋愛結婚ではなく政略結婚が当たり前で、女性に求められるのは家柄。
龍神の神子である望美はこの世界に親兄弟はなく、景時の京邸が実家のようなものとは言ってもあくまでも居候に過ぎず、ヒノエに与えられるものはこの身一つだった。
それでも、望美をとヒノエは求めた。
自分の横に並び立つのは彼女しかいないと。

「姫君は俺が夫ではご不満かい?」

「そんなわけないよ。私じゃなくてヒノエくんが……」

「不満なんてあるわけないだろ。優しくて賢くて勇ましい、最高の姫君が俺の奥方なんだからね」

「……褒め過ぎだよ」

「ふふ、そうかい? 真実なんだから仕方ない」

気づけばまたヒノエのペースになっていることに頬を膨らませると、笑んで唇を奪う彼に赤くなる。

「お前が俺を選んで、俺もお前を選んだ。
そうだろう?」

「そう、だけど……」

「お前は俺を選んだことを後悔するかい?
……なんて愚問だね」

「うん」

後悔するか?
その問いには何度でも否と答えられる。
この世界に残ってヒノエの傍にいるか、自分の世界へ帰るか――戦が終わった時、その決断はすでに望美の中で下されていたのだから。

「――ごめん。やっぱり少し寂しかったみたい」

わかっていることを問うてしまったのは信じていないからではなく、消えることのない不安ゆえ。
ヒノエの想いを疑っているのではない。
望美が、彼にあげられるものが何もないから。

「何もない、なんて謙虚が過ぎるね」
「ヒノエくん?」
「俺はお前からたくさんもらってるし、これからももらうつもりだよ」

胸の内を読んだかのような言葉に首を傾げれば
抱き寄せられて、その瞳が甘く煌めく。

「熊野。親兄弟。水軍のやつら。お前が俺の手を取り、この世界を選んでくれたからこそ、俺は愛するそれらを手放さなくて済んだ。
そして、お前から熊野ごと愛されてる。こんな最高なことないだろ? それに――」

つと首筋を撫でる指先に肩を震わせると、紅の双玉に宿る光にひくりと身体の奥が熱くなる。

「片時も離したくないほど麗しい奥方をこの手の中に抱けるんだ。これほどの幸せを手放すなんてありえないね」

耳元で囁けばとろりと潤んだ瞳は、ヒノエが夜毎その身を求めて刻んだ証。
愛しくて、何度味わっても飽きることなんてない。
際限なく求めてしまう極上の果実――それが望美なのだから。

「ヒノエくん……」
「――いいね?」
甘く、甘く誘えば、背に回された腕を了承と受け取って、至福のひと時をゆらり、揺られながら
過ごすのだった。

2017/08/07
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