幽霊騒動

ヒノ望35

望美がその噂を聞いたのは偶然だった。

「幽霊?」
「……奥方様!」
「驚かせてごめんね。幽霊がどうしたの?」
「いえ……これは……きっと、寝ぼけたものの戯言だと……」
「詳しく教えて」

ずいっと身を乗り出してくる別当奥方に、女房達は困ったように顔を見合わせる。
きっとヒノエに緘口令をしかれていたのだろう。

「ヒノエくんには黙ってるから。ね?」
「………では、」
望美が言い出したら引かない性格だということはもう、別当家で働く者に周知されており、女房は渋々という体で教えてくれた。

「子どもの幽霊?」
「はい。夜な夜な現れては、誰かを探し回って
いるらしく、皆怯えております」

望美がいる本宮は、熊野三山を統べる別当がいる。
いくら熊野があの世とこの世を結ぶ場所だといえど、早々迷い出るような場所ではなかった。

「それでここのところ、ヒノエくんが忙しそうだったんだね」
きっと結界の強化と、情報収集に奔走しているのだろうとあたりをつけると、小さくため息をこぼした。

「……全然教えてくれないんだから」
「別当様は奥方様のことを心配されて……」
「うん、それはわかってる」

この世界に神子として喚ばれたその役目を終え、ヒノエの元に嫁いだ望美だったが、神子の力が
なくなったわけではなかった。
処女性を求められる巫女のように、純潔を失えば消えるのかと思ったが、相変わらず白龍と意思を交わすことができることから、神子とはきっと
死ぬまで変わらないものなのだろう。
そうした望美の力に群がるものは後を絶たず、
ヒノエはあくまで別当奥方という肩書で必要なもののみを望美に割り振った。
それは彼女が龍神の神子ではなく、別当奥方で
あるということを知らしめるためであった。

「引き留めてごめんね」
女房達を開放すると、望美はわずかな思慮の後に自室に向かう。
その晩、夕餉を済ませた望美は、何食わぬ顔で
ヒノエに問うた。

「本宮に幽霊が出るんだってね」

「お前の耳にまで入るなんて、よっぽど夜遊びが過ぎる奴のようだね」

「ここ最近、関係者の中で小さな子どもが亡くなった者は?」

「いないね。烏に調べさせた」

「そう……」

ヒノエが調べさせたのだ。情報に抜けなどないだろう。
ではなぜ、この本宮に子どもの幽霊が迷い出ているのか?

「この件は続いて調べさせるから、お前は気に
やまないでいいよ」

これは別当奥方の仕事ではない――そう線引きされたことに気づき、望美は小さくため息をつく。 ヒノエの想いはわかっている。
望美の龍神の神子の力は、基本陰の気を浄化するだけで、霊を感知する力はない。
巫女のように霊と言葉を交わす力はないし、浄化と言っても剣で断つ荒々しい方法しか望美には
できないのだ。
龍神と言葉を交わせる望美に過大な望みを期待
するものが多いが、彼女に出来ることはほんのわずかなことだけだった。

「困った虫を疼かせないでくれると助かるね」
「そんなに厄介事に何でも首を突っ込んでないでしょ」
「どうだか」

さっと先手を打たれ不貞腐れると楽し気な笑い声が耳をくすぐって、おいでと手招かれ傍に行く。

「そんなに信用無い?」
「俺が奥方が愛しくて過剰にその身を案ずるだけだよ」

剣を取り、運命を変えようと奮闘していた望美だ。
ヒノエは姫君などと呼ぶが、とても姫などという器ではないことはわかっている。
そう言外に伝えれば、それでも甘い笑みは変わらずに、するりと一房、髪に口づけられた。

「お前が慈悲深いのはわかってるけど、相手は
結界の中を自由に出没するような奴だからね。
気にはなるだろうけど、もう少し俺に任せてくれないかい?」

やんわりと詮索を拒否され、望美は渋々頷く。
そんな彼女に満足げに微笑むと、手にしていた杯を置き口づける。
間もなく訪れた甘く熱いひと時に、望美は否応なく巻き込まれた。

* *

それからも、本宮では度々子どもの姿が目撃された。
しかも始めは夜ばかりだったものが、日中にも
見られるようになり、さすがのヒノエも眉をしかめていた。
結界をものともしない霊。
一時は確かに熊野の結界も弱まり、怨霊が本宮
近くに出ることもあったが、それは五行の乱れも影響していた。
けれども今は龍神も戻り、平家によって乱されていた五行も正常に戻ってきていた。

ヒノエだけでなく湛快の手も借り、結界も強化している。
なのにあの霊だけは結界に阻まれることなく、
本宮を自由に歩きまわれるのである。

「通常の霊でも、怨霊でもない……」
かといって神や害意ない物の怪の類でもなさそうとなれば残るものは――。
目まぐるしく思考を働かせると、ヒノエは烏を呼び寄せた。

一方、今回の件からカヤの外に出された望美は、通常の奥方業務を淡々とこなしていた。
別当奥方は意外にやることが多く、別当として
神職に携わるもの以外にも、海軍の長として貿易を行うものもあり、目録のチェックを任されている望美は、荷と相違を確認していた。

「これで大丈夫だね」
「お疲れ様です。あとは我々にお任せください」
「うん。お願いします」

共にいた副頭領に引き継ぎを頼むと、望美は北の棟に引き上げるべく、廊下を歩く。
その途中、ふと庭に少年が佇んでいるのに気が
付いた。

「どこの子? 迷いこんじゃったのかな」
見覚えのない少年に歩み寄ると、戸惑う視線が
望美に向けられる。

「別当様はどこ?」
「ヒノエくんのことを探してるの?」
「ヒノエ、くん?」

望美の口にした名に揺らぐ瞳。
人違いでもしているのだろうかと、望美が身を
かがめようとした瞬間、ぐらりと景色が歪んで。
一瞬の後、望美は見知らぬ場所に立っていた。

「え? なに? ここ、どこ?」
先程までは庭に面した廊下にいたはず。
けれども今は、どこかの部屋の中だった。
しかも。

「浮いてる?」
地についていない足にじたばたと慌てるが、一向に着く気配はなく、望美は諦めその状況を受け
入れた。

「まさか生きてるうちに幽霊状態を体験できるなんて思わなかったな」

さしずめ生霊と言ったところだろうかと、のんきなことを考えていると、女のさざめ泣く声が聞こえてきた。
見れば部屋の奥で、床に突っ伏し泣き伏せる女が目に入る。

「あの……大丈夫ですか?」
無駄かもと思いつつ声をかければ、案の定女には望美の声が聞こえないらしい。
ぴくりとも反応はなく、ただひたすら泣き続けていた。

「どうして……」
漏れ出た声は悲しみに満ちていて、望美の心を
切なく揺らす。

「この子は確かにあの方の子……なのに知らぬとあの方は言う……っ」

自分の腹をやわりと撫でながら涙をこぼす女。
切なさとやりきれなさが宿る呟きは、目の前にはいない男に向けられていた。

「あの方の子は我が子と認められ、私のこの子は認められぬと……」

女の嘆きを聞いていた望美は、その状況をおぼろげながら理解した。
この女が愛した男は、この人以外にも他に女の人がいて、どちらにも子ができたがこの人の子は
認められず、その悲しみに打ちひしがれているのだ。
この時代は望美のいた世界と違い、一夫多妻で男は何人もの妻を娶ることができた。
故に、こうした女の嘆きは溢れていた。

「あの方がいらぬ子を宿した私はもう顧みられることはない」
ゆらりと黒髪が揺らめいて、懐から出されたのは守り刀。

「ダメ……!」
その行動を止めようとした望美の手は、しかし
その身をすり抜けて、辺りに紅の飛沫が散る。

「ああ、お前を一目あの方に会わせてやりたかった……。
お前は私とあの方の子……大切な愛し子……」
血に染まった手で腹を撫で、我が子に語りかける姿は悲しく、望美はそのあまりにも悲しい最後に眦から涙をこぼした。

「……奥方様!」

不意の呼びかけに、望美はハッと目を見開く。
そこには心配気に望美を見る女房がおり、驚き
辺りに視線を動かした。
見慣れた本宮内。
そこはあの不可思議な経験をする以前に望美が
いた場所で、戻ってきたのだとわかった。

「誰か、奥方様が……っ」
「大丈夫。立てるよ」

ふらつき、支えられていた身を起こすも、突然
目の前で倒れた奥方を女房が放っておくはずもなく、望美は駆けつけた者たちに強制的に連れられ、医師の診察を受けさせられた。
眩暈を起こした原因が過去へ行って生霊体験を
していたからだなどと思うはずもなく、疲れからくる眩暈と診断を受け、薬湯を飲まされ、安静を言い渡されて、寝室で横になっていると、騒ぎを聞きつけたヒノエがやってきた。

「眩暈を起こしたんだって? お前の不調に気づかず、悪かったね」

「ううん。違うの。具合が悪かったんじゃなくて……」

気遣うヒノエに首を振ると、先程見てきた出来事を話して聞かせる。

「自害した女……」
「本宮に出る子どもの霊って、もしかして……」

望美が言葉を続けようとした瞬間、目の前に白い塊が揺らめいて。
ヒノエがとっさに望美をその背に庇うと、現れた子どもは二人を悲しげに見た。

「別当様?」
「違うよ。お前が会いたいのは俺じゃない」

わからないと戸惑いを隠せない子どもに、ヒノエはその姿をまっすぐ見つめ、語りかける。

「お前が会いたいのは先々代の別当。今はもう、この世にはいない」
「別当様……いない?」
「そうだ。お前の母君と同じ常世にいる」

母君とヒノエが口にした瞬間、空気が揺らめき、子どもの傍らに自刃した女性が現れた。

「あの方に似ている……けれども、あの方ではない」

「ああ。あなたの愛した男はここにはいない。だから……」

望美、と呼びかけられ立ち上がると、親子の傍へと歩いていく。

「あなた方を常世へ送ります。来世はきっと幸せになってください」
心からそう願い、意識を浄化の力に向けると、
柔らかな光が二人を包み、天へと誘う。

「……かみさま?」
幼い呟きに涙をこぼすと、望美は浄化の力で二人を送った。

* *

「……やっぱりそうだったんだ」

望美が倒れた頃、ヒノエはある仮定を立て、烏に別当家にかかわるものを調べさせていた。
そこでわかったのが、あの親子の存在。
ヒノエの祖父に当たる別当が、正妻である湛快の母でも、京から連れ去った弁慶の母でもなく、
寵愛を与え、捨てた女性。
それがあの母親にあたる女性だった。

悪評を広げていた先々代は女にも旺盛で、気に入った女性は躊躇せず手に入れ、寵愛を失えば簡単に捨て置いた。
そうして見捨てられた女性は、腹に身ごもった子と共に命を絶ったのだった。

「お母さんの願いを叶えてあげたかったんだね、きっと」
会うことのなかった父を慕ってではなく、この世に生まれることなく命を奪った母への悲しいまでの愛。
その事実が切なく、望美の頬を涙が伝う。

「ヒノエくん、あの子たちのことお願いね」
「わかってるよ」

悲しい幕引きを遂げた二人を安らかに眠らせてあげて欲しい――そう願う優しい思いに頷いて、
そっと指で頬を拭う。
あの親子を浄化した光と同じく綺麗な、美しい涙。

「俺は生涯お前以外を愛せない」

あんな思いを望美にさせるつもりはない。
そう告げるも、返ってくるのは悲しい笑み。
この時代でヒノエの選択は異端であり、周囲が
それを認めないだろう立場にあることを重々知っている望美は、たとえ本心でそれを望んでいようと、口に出すことはできなかった。
だからこそ、生涯かけて証明していく。
望美だけを愛し、幸せにすると。
脳裏に浮かぶ、ヒノエに向けられた女の眼差し。
愛しさと切なさに溢れた瞳は悲しくヒノエに焼き付いていた。

(誓うよ。あんたと同じ想いを、俺は望美にさせないと)
心の奥で誓いを新たにすると、リン……と小さく鈴の音が聞こえた。
忘れないで――そう願うように。
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