偽別当騒動

ヒノ望33

とある騒動が別当家に持ち込まれたのは、夏の暑さも本格的になってきた頃。

「……で? なんだって?」

「は……実は、昨日押しかけてきた男がいるんですが、その者の言い分がちょっと聞き捨てならないもので……」

「『望美』を返せって?」

スッと細まった紅の双玉に、副頭領は数度外気が下がった錯覚に陥る。
エアコンなど存在しないこの世界でそんなことあるわけもないのだが、それほどヒノエから発せられた怒気は強く、その場に居合わせた者の肝を冷やした。

現熊野別当といえば、内外共に愛妻家として知られており、領内の豪族や身分ある姫君ではなく、異世界から舞い降りた神子を正室として迎え入れ、以降側室も持たずと、その愛妻家ぶりが窺い知れた。
そんな別当が村娘をかどわかすなど、ありもしないことだというのは、別当近くにいるものなら
誰もが知っていた。

「その『望美さん』を連れ去った男が、別当を名乗ってたってこと?」

「はい。見慣れない貴族体の男に、ここ数日しつこく言い寄られていたようで……突然姿を消した奥方に、男は別当に連れ去られたと誤解してここに乗り込んできたようです」

熊野を治める別当の元へ乗り込んでくるなど、
なんと無謀な男だろう。
その行動は、彼が奥方をどれほど愛しているかを物語っていた。

「どこからか、ここに『望美』がいると聞いて、ますます思い込んだ……ってとこか」
「違うといくら言っても、納得しないんです」

とんとん、と自らの膝をリズミカルに叩いていた指を止めると、ヒノエが副頭領を見据える。

「俺の名を騙るなんて、ずいぶん剛毅な奴もいるもんだ。……烏は?」

「すでに領内を探らせています」

「じゃあ俺は、別当に女を取られたと殴り込んできた男に会おうか」

「若自らですか?」

「その方が早いだろ? もちろん、望美も同席するだろ?」

「それは、その方が誤解がすぐ解けるだろうし……」

「決まりだね。そいつを連れてきな」

ヒノエの命に副頭領は控えていた者に目配せすると、少しの間の後、一人の男が連れられてきた。

「縄を外してやりな」
「しかし……」
「それじゃゆっくり話も出来ないだろ?」

縄を解かれた男は顔をあげると、ヒノエの横に
座る望美に、ぎゅっと唇をかみしめた。
きっと、自分の嫁のように連れ去られてきたのだと、誤解しているのだろう。
その顔は険しい。

「名は?」
「……庄吉と申します。どうかお願いでございます。私の女房を……『望美』をお返しください」

「望美、ねえ。確かに俺のもとにその名の者はいるが……」

「やはり『望美』はここにいるのですね!」

庄吉の身を包んだ怒気に、望美は二人の間に入ると宥めるように口を開いた。


「あの、ここにいる『望美』は私、なんです」
「…………は?」

憎しみに染まった庄吉の瞳が、望美の言葉に困惑気に揺れるのを気の毒そうに見ながら、しかし
はっきりと言葉を重ねる。

「確かに熊野別当のもとに望美という名の者は
います。でも、それは私なんです。だから、奥さんのことは何かの間違いだと思うんです」

「そ、そんなはずは……っ」

「彼女が言っていることは本当だよ。俺のただ
一人の奥方だからね」

「嘘です! 望美は、私の望美はずっと別当の元に来るよう、執拗に迫られていました!」

「……身に覚えは?」

「ないね。お前が一番知ってるだろ?」

つと視線を移すも、ヒノエの浮気を欠片も疑っていない望美は頷くと、庄吉はうなだれ嗚咽を漏らした。


「……では、私の望美は……いったい誰に連れ去られたのですか……っ」
「奥さんのことは今、探しているから安心して」
「……え?」
泣き崩れた庄吉に、望美は安心させるように微笑む。

「別当は熊野の民を蔑ろにしない。だから、あなたの奥さんもすぐに見つけるよ」

「言い切ってくれるね」

「もちろん見つけてくれるんでしょ?」

「こうまで奥方に期待されたら、応えずにはいられないね。勝手に名を騙られたままというわけにもいかないしな」

望美の曇りない瞳にウィンクを返すと、立ち上がって綺麗に微笑む。

「俺の名を騙ったこと、そいつに後悔させてやらないとね」

 * *

ひとまず庄吉を客間に下がらせてから数刻後、
烏によってもたらされた情報に、ヒノエは眉を歪めた。

「まさか京の人間だったとはね…」
「どういうこと?」
「熊野詣に訪れてる貴族が、今回の犯人ってことだよ」
「ええっ!?」

人買いが嘘をついてかどわかしたのかと思っていたが、まさか参詣のものだとは思わず、望美は
驚きヒノエを見る。

「どうするの?」
「もちろん、そんな罰当たりな奴にはきつくお灸を据えてやらなきゃね」

微笑みは静かな怒りを宿していて、この地の平穏を乱したものへの別当の怒りを感じさせた。

「私も一緒に行くよ」
「置いていくって言っても聞きはしないだろ?」
「当然」
「俺の奥方は勇ましいね」

口角をつり上げ、笑うヒノエに、望美はきりりと顔を引き締める。
それは共に旅していた頃によく見た顔。

「それに、別当家の『望美』は俺だけのものだって、あの男に教えてやらないといけないからね」

にやりと微笑むヒノエの言葉に、実はかなり機嫌を損ねていたことを知って、望美は笑いながらその胸に身を委ねた。

 * *

新宮、那智と巡り、再び本宮に戻ってきた貴族は、突然目の前に現れた男女に、驚き足を止めた。

「精進潔斎を行い、浄土を求め参られた貴殿等の中に、成仏できずこの世を彷徨っておられる方がおられるようだ」

「な、なんだって?」

「何を……我らは作法にのっとり、順に三山を
巡ってきたのだぞ。それをなんと……!」

「あなた達が連れているその人はどうしたの?」

「こ、この女は我等と同じく熊野詣に参ったものだ」

「嘘」

疲れた顔で付き従う彼らの同行者の女を指し示せば、慌てて取り繕う貴族の言葉を、ぴしゃりと
望美は遮った。


「……っ、この者は我が邸に愛妾として迎え入れてやるのだ。こんな山深くにいるより、よほどいい話ではないか」

「勝手なことを……この人には帰る場所がある。それをあなた達の勝手で歪めることは許さない」

「な……っ、生意気な女め!
お前如きにどうこう言われる筋合いはないわ!」

カッと顔を怒りに歪めた貴族が触れようとした
瞬間、望美は素早く身をかわすと逆にその腕を扇で叩き払う。

「望美……!」
「おまえさま……っ」
後ろに控えていた庄吉は、女房の姿を認めると駆け寄り、その身を抱き寄せた。

「罰当たりなものには相応の報いを与えなきゃいけないね。――熊野を治める別当として」

「べ、別当だと?」

「そんな……まさか……」

「真偽は後で確かめるんだね。
……連れて行きな」

「はっ」

ヒノエの命に、貴族たちは水群衆に引っ立てられていった。

「ありがとうございます……! おかげで女房を取り戻すことができました。数々のご無礼、本当に申し訳ございませんでした」

「ううん。それより、奥さんを大事にしてあげてくださいね」

攫われていた期間、彼女がどんな仕打ちを受けていたかを思い、望美が顔を曇らせると、その肩をヒノエが抱き寄せる。

「近くに宿を用意させたから、今日はそっちで
休むといい。奥方は身を休める必要があるだろうからね」

精神的苦痛だけでも計り知れないだろう、庄吉の奥方を気遣うヒノエの言葉に、頭を垂れると二人は寄り添い宿へと歩いて行った。
彼女の負った心の傷が少しでも早く癒えるように……ただ祈ることしかできず、望美はきゅっと唇をかみしめた。

ヒノエがどれほど優れた統治者であろうと、熊野で起こるすべてを把握することはできるはずもない。
そして、その隙間をぬって悪事を働く者がいることが歯痒くて仕方なかった。

「私も、ヒノエくんと一緒に熊野を守りたい」

ヒノエの元に嫁いで、別当奥方として学ぶ日々の中で、それはずっと抱いていた想い。
傍にいるだけではなく、一緒に熊野を守っていく……それが望美の願いだった。
まっすぐ見返す翡翠の瞳に、胸の奥から湧き上がってくる感情は喜び。
熊野を愛し、共に守りたいと告げた望美の言葉は、何よりヒノエを揺さぶるもの。

「もちろん。お前は俺の――熊野の誇る神子姫だからね」

傍にいてくれるだけでいい。
それもヒノエの本心だが、それでも望美がそれだけで満足するはずもないことはわかっているし、またそれ以上を望む彼女が何よりヒノエの愛した彼女の気質でもあった。
後ろを歩くのではなく、共に並び、同じものを見る。
それはヒノエが求めていた、別当奥方の気質そのもの。

「やっぱりお前は最高の女だね」
心からの賛美を告げると、誓いを新たにその唇に口づけた。
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