熊野別当奥方失踪事件

ヒノ望32

珍しく親父とお袋が顔を出し、いつもの望美と
二人だけの夕餉が賑やかなものになった日。
望美が突然、姿を消した。
先に部屋に引き上げたはずの望美の姿がないことに、始めは厠にでも行っているかと思ったのだが、しばらく待っても戻ってくる気配がなく、
ここに来て初めてヒノエは異変に気がついた。

「いるか?」
「――はい。いかがされましたか?」
「望美はどこに行った?」
「は? 奥方様ですか?」
「そうだよ」
静かな苛立ちを宿した声に、一瞬口ごもると、烏は否の答えを返す。

「奥方様は夕餉の後、戻られてから一度もお部屋をお出になってません」
「だが、あいつはここにいない」
「……確認してきます」

尋常でないことが起こったことを悟ったのだろう、烏が遠ざかる気配を感じながら、ヒノエは自らも異変を探ろうと部屋を見渡した。
部屋に争った気配はない。
烏が異常に気づかなかったのだから、何かが侵入したということも、望美が自分で出て行ったのでもないのだろう。
それなら、望美はどこに消えたというのか?

慎重に手掛かりを探っていたヒノエは、不意に感じた違和感に立ち止まった。
そうして、その違和感の正体を探って、唖然とした。
わずかに残った神気。
意識しなければ気づかないほど、それは残り香のようにささやかなもので、けれども覚えのあるものだった。

「今さら白龍が何の用だっていうんだ?」

ヒノエの奥方である望美は、京を守護する龍神の半身・白龍に選ばれた神子。
直接人の世に関与することはできない龍神は、
自分の力を行使できる神子を選び、何百年と守護を続けてきた。

「若! 奥方様が消えたというのはまことですか!?」
「ああ」
烏から聞いたのだろう、駆けつけてきた副頭領に、端的に命ずる。
邸周辺に陸路と海路の出入り口。熊野全土を一晩で探せというには、あまりにも無理がある。

「……これで見つかればいいんだけどね」
「若?」
「いや……なんでもない」
もしもこれが白龍の仕業ならば、いくら熊野を探そうと無駄だろう。
だが、可能性はすべてつぶしていかなくてはならない。

「朔ちゃんにも聞いた方がいいか」

望美と対にあたる、黒龍に選ばれた神子。
もしも京に異変が起きたというのなら、きっと朔も何かしらを感じ取っているだろう。
筆を取り、文をしたためると、烏へ手渡す。
走り去った烏に、ヒノエは眉を歪め外を見上げた。
真っ暗な空に浮かんだ月。
望美と同じ、望月。
今、出来ることはした。あとは、報告が上がるのを待つだけだった。

* *

翌朝、烏が持ち帰った報告はヒノエの予感を確信に変えた。
たかが一晩で、しかも女を連れて姿をくらますことは、容易なことではない。
人為的な可能性は低い。
ならば、可能性はやはり――。

「若?」
「――待て」
不意に感じた気配に、口を開きかけた副頭領を遮ると、外に出る。
と、眩い光が辺りを包み、そこに白い龍が現れた。

「ちょうどよかった。白龍、お前に聞きたいことがある。姫君の行方を知ってるかい?」

『神子は今、この時空にはいない』

「この時空にいない?」

『私の一部だったもので時空を跳んで、神子は
神子の世界へ戻った』

「望美の世界へ……戻った?」

白龍の言葉に、信じられないように目を見開く。
どくどくと、うるさいぐらい動揺している己の
鼓動に眉を歪めると、空に浮かぶ白き龍を見据える。


「……それは、望美の意思かい?」

『神子はヒノエの元に戻りたいと願ってる。
だけどもう、あれには時空を選ぶほどの力が残されていない。だから、神子が戻れない』

「戻れない? お前が喚ぶことはできないのかい?」

『……力が足りない。神子のおかげで五行は正しく流れるようになったけれど、まだ私が強き力を得るには、時間が必要だ』

神の言葉は人が理解するには難しい。
冷静に得た情報を解し、整理すると、ヒノエは白龍を見た。


「望美は、自分で戻りたいと望み、元の世界に
戻ったわけじゃないんだな?」

『うん。神子は事故……そう言ってる』

「望美と意思を交わすことができるのか?」

『私は神子の龍。だから、時空の隔たりも私と
神子のつながりは消えない』

以前、望美から白龍の逆鱗のことは聞いていた。
一度、源氏が滅びる未来を見たのだと、望美は大粒の涙を流し、語った。
聞いた時は驚いたが、それが嘘ではないと思えた。
それが真実なら、今までヒノエが感じていた疑問をすべて解決できるからだ。
始めて六波羅で出会った時、望美はヒノエの名を言い当てた。
もしかして以前会ったことがあるんじゃないか?
そう問うと、そうかもしれないと笑った。

それからも、望美はまるでその先の出来事を知っているかのように、九郎に忠告をすることが度々あった。
そしてそれは正しく、何度と源氏を救ってきた。
龍神の神子の宣託か先視か。
そうも考えたが、それにしてはあまりにも普通の少女だった。
望美のこうしたミステリアスな面に興味を持ったヒノエだったが、いつしかそれは恋心に変わっていった。

「――望美は帰りたいと願ってるんだね?」
『うん。ヒノエの元に帰りたがってる』

望美が自分で望んでこの世界を離れたわけでは
ない――そのことを知って、紅の瞳に力強い光が宿る。
望美には時空を渡る術がある。
だがそれは、以前のように己の望むようには操れなくなっており、彼女は時空の迷い子となっていた。

「どうすれば、望美をこの世界に跳ばせるんだい?」

『神子とヒノエには縁がある。それを辿れば、正しく渡れるよ。願って。想いは力。人の願いが私に力を与える』

「それならお手のものだ。――かけまくも畏き
家都美御子大神。時空の狭間に迷いし愛しい我が妻を、どうか私の元へ!」

額の宝珠に熱が灯る。
それは望美とヒノエを結ぶ縁。
けれども、それだけじゃない。
二人には、神子と八葉という関わりを超えた先にある想いがある。


『願って。ヒノエと神子をつなぐ縁が、神子の帰る道になる』

「望美。帰っておいで。お前の帰る場所はここ
……俺だろ?」

遙か時空の彼方に呼びかけて、迎え入れるべく両手を差し出す。
この腕に抱くのは、ただ一人。

(…………エ……)
空に響き渡る、鈴の音。
清浄なる真白な光に包まれて、ふわりと舞い降りるのは、ヒノエの天女。

「……ヒノエくん…っ」
「おかえり、望美」
腕の中に確かなぬくもりを抱きしめて、紫苑の髪に顔を埋める。

「ごめ……ごめんなさい……っ」

「もういいよ。お前は俺のところに帰ってきた。そうだろ?」

「うん……っ」

『よかったね、神子』

「ありがとう、白龍。白龍とつながってなかったら、不安できっと一人で耐えられなかった」

『私は神子の龍。神子がどこにいても、私と神子は繋がってるよ』

「うん。ありがとう」

涙を浮かべながら微笑む望美に、白龍の身体が眩く輝く。

『神子。どうか幸せに……もう一つの命、大事にして』

優しい祝福をささげると、龍神は己の守護する地へと帰っていく。
それを見守っていたヒノエは、ふと抱いた疑問を口にした。

「ねえ、望美。白龍が言っていたもう一つの命ってなんだい?」
「……あ」
思い出したように振り返ると、そっと、お腹に手を添える。

「……ここに、いるんだって」
「え? ……まさか、ややこ?」
「うん…」
望美の言葉に、改めて彼女を見つめて。
鮮やかに、喜びが広がっていく。

「今日は最高の日だね」
この腕の中に、愛しい女と我が子を抱いて。
ヒノエは、再び取り戻した幸福を確かに抱きしめた。

* *

「……そういうことだったのか」

邸の者に望美の無事を伝えて、ようやく彼女から事の顛末を聞き終えたヒノエは、おいでと望美を手招いた。
それに素直に応じ、その腕に抱かれた望美は、
申し訳なさそうに俯いた。

「本当にごめんね。まさか、こんなことになるなんて思わなくて……」

久しぶりに堪快夫婦と夕餉を共にした望美は、
場が酒宴へと変わり始めたことから先に部屋に戻ることにした。
と、不意の鈴の音に、気づくと真っ白な空間にいた。
そこは以前にも覚えがあり、慌てることなく辺りを見渡していると、懐かしい人が現れた。

「白龍!」

「神子、久しいね。神子が元気そうでよかった」

「うん。でも、どうしたの? 京で何かあった?」

「そうじゃないよ。神子に伝えたいことがあった」

「私に?」

柔らかい微笑みで告げられたのは、思いがけない幸せ。
いつかは、そういう日がやってくると、そう思っていたけれど、やはりそれは驚きで。

「本当?」
「うん。神子とヒノエの縁が宿ってる」
白龍の言葉に、自然と掌がお腹に触れる。

「子どもが……」

自分のお腹の中に、ヒノエの子がいる。
それを知った瞬間、浮かんだのはヒノエの顔と……両親の顔。
ヒノエと生きていくと決めた時から、出来るだけ考えないようにしていた。
けれど、お腹に子どもがいるとわかって、そのことを両親に伝えられないことがひどく悲しく、
胸が痛んだ。

「……ごめんなさい……っ」

突然いなくなった自分のことを、どれだけ心配しているだろう。
どうしてもヒノエと別れたくなくて、この世界を選ぶことは両親と会えなくなることだとわかっていながら、何も言うことも出来ずこの世界に残った。
そのことを後悔しなかったといえば、嘘になる。
ヒノエの傍にいることに後悔はないけれど、一言も告げず両親を悲しませたことは、ずっと胸の奥に消えない棘となって刺さっていた。
もしも一言でも告げられたなら……そんな思いを抱きながら、無意識に触れた逆鱗。
瞬間、辺りは真白な空間に変わり――望美は、
時空を超えていた。

「親父さんたちには会えたのかい?」
「うん。譲くんに会って……」
「譲に?」
「うん。私が戻ってくるのを、夢で見てたんだって。着物だし、お金は持ってないし、どうしようか困ってたから助かっちゃった」

譲は夢で未来を見る力を持っていた。
きっと、彼に流れる星の一族の血が、神子の危機を教えたのだろう。

「泣いて……喜んでくれた。おめでとう、って。幸せになりなさいって」
「そう……」

こぼれ落ちる涙を指ですくってやって、瞼に優しく口づける。
ヒノエに望美を責めることなど、出来るはずもない。
彼女の望みはヒノエの罪。
ヒノエの幸せは、望美がすべてを捨てたことで得られたものだから。

「でもね、いざ帰ろうと思って、逆鱗の力が弱まってることに気づいたの」

以前ならば、望む場所にすぐに戻ることができた。
なのにその力が失われつつあることに、望美は絶望と焦燥を抱いた。
ヒノエの元に戻れない……それはひどく恐ろしいことだった。
焦り、惑う中で聞こえた白龍の声。

「白龍の声が聞こえた時、すごくほっとした……。ああ、私はまだあの時空とつながってるって。ヒノエくんともう会えないんじゃないかって、怖かったから。
それで、どうしたら帰れるのか、必死に白龍に聞いたの」

「白龍はなんて?」

「ヒノエくんとの縁が道になる……って。
私とヒノエくんの想いが帰る道になるからって」

それは、白龍がヒノエに告げた言葉と同じもの。
二人の想いが重なった瞬間、二つの時空は繋がった。

「……お前がもし、自分の意思で帰ることを願ったのならどうしようかって思った」

「ヒノエくん?」

「お前がもし、俺より自分の世界を望むなら……俺は、諦めなきゃいけないのかって思ったら――世界が色をなくした」

「私の世界はここだよ。ヒノエくんの傍にいる、ここが私の帰る場所だから」

「望美……」

「それに、この子を片親にする気なんてないもの」
そうして愛しげにお腹を見つめる望美に微笑んで、その手に己の掌を重ねる。

「そうだね。俺には熊野とお前、それに俺とお前の子を守る義務がある。それを誰かに譲るなんて、できやしない」

熊野が大事。それは絶対で。
けれども、望美が熊野に劣ることなどない。
望美も、熊野も。
そう、誓い、手に入れたのだから。

「それにしても妬けるね。お前とつながってるのは、俺だけじゃないなんて」

「白龍のこと? だって、それは……」

「言い訳は聞かないよ。白龍とつながってることに喜んだのは事実だろ?」

「う」

困ったように見上げる望美に、意地悪そうに口角をつり上げると、撫でるように腰に手を添える。

「とりあえず、お前が帰ってきたことを確かめさせてもらおうかな」

「え、えっちはダメだよ! 赤ちゃんがいるんだからっ」

「それは残念。……なんてね」

お腹に負担がかからないように抱き寄せると、
そっとその唇に重ねる。

「愛してるよ、望美……」
「私も……ヒノエくんが好き」
「そこは『愛してる』だろ?」
「う……。あ、愛してる、よ」
恥ずかしそうに、それでも想いを重ねてくれる望美に微笑んで。
もう一度、その唇に愛をささげた。


【後日談】
「いや~めでたい! 俺もついに祖父さんか」

「おめでとう、望美さん。でも、残念だな。
君がヒノエに嫁いだことを後悔したときには、僕が君をと思っていたのに」

望美の妊娠が知れ渡って。
別当家では連日お祝い状態。
いつの間に聞いたのか、弁慶までもがやってきて、この期に及んでも望美を口説く様に、ヒノエのこめかみがひくりと引きつる。

「残念だったな。一生、お前の出番はないぜ」
「子は僕がとりあげますから、安心してくださいね」
「絶対、お前には頼まねえ!」

さりげなく望美の手を取る弁慶に、割って入って奪い取る。
そうして睨みあう夫と叔父に苦笑していると、堪快と目が合って。
宿る瞳のあたたかさに、望美は改めて幸福を噛みしめた。
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