吐いた息が白く浮かぶ。
夜明け前で辺りは暗く、静かな潮騒だけが耳に届く。
「寒くないかい?」
「ちょっと。でも大丈夫だよ」
鼻を赤くして微笑む望美を後ろから包み込むように抱き寄せると、温もりを分け与えながら海を見る。
暮れが迫った冬のある日、祭事の準備で忙しいはずのヒノエが突然連れて来たのが、ここ田原だった。
「そろそろ……かな」
ヒノエの呟きが合図のように、海辺に光が差しこんでくる。
瞬間、目の前に広がる光景に、望美は感嘆の吐息をこぼした。
海面に濛々と立ち込める霧。
それらが朝焼けに照らされた光景はこの世のものと思えぬほど神秘的で、言葉なく魅入ってしまう。
「熊野はこの世とあの世が混ざり合う霊地。
古より、この南海の彼方には補陀落があると言い伝えられているんだよ」
「補陀落?」
「ああ。観音菩薩のおられるところさ」
ヒノエの言葉に、再び視線を海に戻す。
確かにそこは下界を感じさせない、厳かで浮世離れした神々しさだった。
「寒い中を連れ出して悪かったね。今この時期にしか見られないからさ」
「すごく綺麗だった! ありがとう、ヒノエくん」
「お前の笑顔が何よりの褒美だね」
微笑み抱き寄せる腕に身を委ねながら、ふと望美は顔を曇らせた。
「でも……無理してない? 忙しいんでしょ?」
熊野水軍の頭領でもあり、三山を統べる別当であるヒノエの忙しさは相当なもので、夜も更けてから帰宅することも多かった。
それは源氏に協力し、熊野を長く空けていたせいでもあり、望美は申し訳なく思っていた。
「この世界にはまだまだお前に見せたい場所がたくさんある。忙しいだなんて言ってられないぜ」
それは一月前、新熊野神社の神事で京に赴いた時に告げられた言葉と同じもの。
こうしていたわってくれるヒノエの優しさが嬉しくて、抱き寄せる腕に手を重ねた。
ヒノエの役に立てていないんじゃないか……そう不安になる時もある。
けれどこうして微笑んでくれるなら。
傍にいたいと、そう思う。
「今度はお弁当を持ってお花見に行こうね」
「いいね。桜の花に包まれたお前は格段に美しいだろうからね」
「もう、すぐにそういうことを言うんだから」
甘言に頬を染めると、降りてきた唇にそっと瞼を閉じて温もりを受ける。
美しい桜も、瑞々しい新緑も。
紅に染まる紅葉も、全てを白く覆う雪も。
美しいこの熊野を共に見つめていきたい。
ずっと、大好きなあなたと―――。