恋情の理由

弁望86

「吊り橋効果?」

「そ。外国の心理学者の研究らしいけど、吊り橋みたいな不安定な場で一緒にいると、不安や恐怖心のドキドキを恋愛感情と勘違いして、安定した場所で出会うより恋に落ちる確率が上がるんだって」

「そうなの?」

「らしいよ。私も望美みたいに素敵な彼氏作りに吊り橋行ってこようかな」

冗談交じりの友人の言葉に笑いながら、望美は
自分と弁慶の出会いを考えていた。

(不安や恐怖心を恋心と錯覚するなんて、本当にあるのかな?)
確かに緊張すると通常より心拍数は上がるが、
それは弁慶を思う時のものと同じだろうかと考えると、どうしても疑問が沸き立った。

二人が初めて出会ったのは戦場で、突然異世界に連れて来られて、右も左もわからない状態の望美を保護してくれたのが、九郎と共に戦場に来ていた弁慶だった。

(でも、吊り橋効果が本当だったら、あの世界の皆に恋しちゃってるんじゃないかな?)

吊り橋どころか命の危険のある戦場に身を置き、八葉の弁慶や将臣たちとは何度も共に戦ってきたのだ。
そんな効果があるのなら、何度恋したかわからないだろう。

「…………!」

不意によぎる残像。
それは異世界から戻ってから時折あることで、
茶吉尼天に心を喰われたことが原因らしいと、後に白龍や弁慶に教えてもらったが、自分の記憶が失われていたことにさえ気づいていなかった望美には、それが記憶の断片なのかはわからなかった。

無意識に神子の力を使い、五行の力を具現化して作り上げたという迷宮で何度か自分の心の欠片を手に入れ、忘れていた思い出を取り戻したこともあったが、きっとそのまま失われてしまったものもあるのだろう。
そのことに不安を覚えないと言えば嘘になるが、以前知らず弁慶との思い出を失っていたらと不安になっていた望美に、失われた時があっても弁慶が共有しているのなら伝えられると教えてくれたから、望美はこぼれた思い出を悔やむことをやめた。
彼の言う通り、新しい思い出を積み重ねていけばいいと思うから。
そんなことを考えながら帰り路を歩いていると、突然肩を叩かれた。

「え? 弁慶さん?」

「こんにちは。学校帰りのようですね」

「はい。弁慶さんはどうしてここに?」

「参考書を買いに出ていたんです。それより何かありましたか?」

「え?」

「声をかけても気づかないぐらい、君は物思いにふけっていたようだったから」

弁慶の指摘に、肩を叩かれるまでその存在に気づかなかったことを知り、望美はごめんなさいと
頭を下げた。

「もしよければ、君が気になっていることを僕に教えてくれませんか?」

「えっと……今日学校で友達から聞いたことなんですけど……」

「吊り橋効果…ですか」

「はい。でも、本当にそんな錯覚するのかな?」

「ないとは言えないと思いますよ」

「え?」

「恐ろしいことに直面した時、人は誰かにすがりたいと思うものです。その時手を差し伸べてくれる人がいたら、心惹かれてもおかしくないと思いませんか?」

「そう、かな?」

まさか弁慶が肯定するとは思っていなくて、望美はうーんと考え込んだ。
不安定な吊り橋。
そんな場所を渡らなければいけないとしたら、きっと足がすくんでしまうだろう。
そこに手を差し伸べられたら、確かにすがってしまうかもしれない。

「……そういう気持ちもあると思います。でも、恋をするのはやっぱり違うと思います」

とても感謝はするだろうが、だからと言って恋に落ちるのはやはり違うと思うのだ。

「では、君が僕を選んでくれたのは吊り橋効果からではない、ということですね。嬉しいな」
「え?」
「違うのですか?」
「そういう話でしたっけ?」
言質を取られて混乱する望美に微笑んで、紫苑の髪を一房手に取る。

「べ、弁慶さん?」
「君が今、僕に胸を高鳴らせてくれているなら、それは君の考えた答え通りなんだと思いますよ」
「私の……答え?」
「はい」

優しい声音は望美が囚われていた思考の迷路の
出口へと導いてくれていて、すっと胸が軽くなるのを感じた。

「ありがとうございます。弁慶さんのおかげで
胸の奥のもやが晴れました」

「僕の方こそありがとうございます」

「え?」

「君から思いがけず情熱的な答えを聞けましたから。ふふ、君の友人に感謝をしなくてはいけませんね」

「情熱的?」

「せっかく会えたのですから、少し寄っていきませんか? ちょうど新しい紅茶を仕入れたところなんです」

「はい、お相伴にあずかります。じゃあ、そこで紅茶に合うお菓子を買ってもいいですか?」

「ええ、お願いします」
何かはぐらかされた気もするが、弁慶と一緒に
いられるのは嬉しいから、望美は最寄りの店で菓子を買うと弁慶の家へと向かった。

* *

「いい香り……苦みも少ないし、美味しいです」
「よかった。君がよく行くお店で新作が並んでいたので、試しに買ってみたんです」
「本当ですか? 今度行ってみます」

弁慶自身はコーヒーを好むが、望美が好みそうなものに自然と目が行くようになった変化は、おかしくも嬉しく思えた。
元々人の機微には聡い方であったが、それは育った環境や軍師という立場上身に付いたものであり、必要な情報かそうでないかをただ見極める
ためでしかなかった。
けれども望美のことを知りたいと望み、それを
実行しているのは自身の感情故。

(吊り橋効果、か)

先程望美が口にした、不安や恐怖心を恋愛感情と錯覚するのは、雛が親を無心に慕うそれに似ていると弁慶は思う。
追い込まれている時、手を差し伸べる人にすがるのは当然の感情だろう。 たとえそれが逃げであっても。

弁慶が望美と出会い、抱いた印象。
それはあどけなくて、こちらが目を見張るほど
時に無鉄砲で危なっかしく、けれどもまっすぐで揺らがない清らかな人。
神子の素質というのは、きっとこういうものなのだろうと、眩いものとして見つめていた。
けれどもこの世界にやってきて望美のあどけなさの理由を知った。
剣を持つ必要などなく、怨霊に怯えることもない平和な世界。
この平穏の中こそが彼女の日常であると認識すると同時に、弁慶は己の罪を改めて思い知らされた。
小さな手に肉刺を作らせ、戦の中に身を置かせる。
それは弁慶が応龍を滅し、京を荒廃させ、危機に陥らせてしまったから。
だから望美は神子として、この平和な世界から
引き離された。
なのに、望美は屈託なく笑い、弁慶の他愛のない言葉に頬を染め、恥じらう。
身を置くことなどないと思っていた平穏な日常に容易く彼を溶け込ませて、謀ではなく贈り物を
考える幸せな時間をくれた。
それらが今まで弁慶にとってどれほど縁遠いものだったか知らずに、彼女は惜しみなく与えてくれた。

和議が結ばれ、源平の戦は終わった。
再び黒龍が生じるのを遮り、縛り付けていた逆鱗も清盛と共に失われた。
きっと、遠くない未来に応龍の加護は京に戻るだろう。
だからもう贖罪は終わったのだと、一瞬でも許されたように思えたほど、それは甘美で優しい時間だった。
けれどもそれは錯覚。
弁慶の罪は、この世界においても彼女を苦しめ、存在を損なわせかけていた。
龍脈を一度断たれたことで消滅してしまった白龍は生じてまだ日が浅く、また乱れた龍脈のせいで十分な力を奮うことが叶わず、望美に巣食うた
茶吉尼天を払う事が出来なかった。

弁慶の悲願は、応龍の加護を京に取り戻すこと。
そのためには黒龍が再び生じることと、龍神が
力を取り戻すことが必要で、弁慶はこの異界の地で龍脈の乱れを正し、その力を強くする方法を選んだ。
――白龍が力を取り戻すまで望美が危険にさらされることを知りながら。

だが、迷宮の奥で茶吉尼天に身体を奪われた望美が、弁慶を傷つけることを拒むために自らを斬りつけた姿を目の当たりにした時、弁慶は予想外に動揺する己を知った。
目的を成すためには多少の犠牲もやむを得ないと、ずっとそう思い進んできたはずだった。
なのに望美がその身を傷つけた瞬間、激しい後悔が押し寄せた。

「弁慶さんはどうなんですか?」
「何がですか?」
「さっきの話です」
「ああ……」
ふと思案していた事柄を問われ、弁慶は再度彼女が問うてきた真意を考える。

「僕の望美さんへの想いが『吊り橋効果』かどうか、ということでしょうか?」

「そういうわけじゃないけど、弁慶さんが効果に納得してたからちょっと不思議だったんです」

「先程も言いましたが、学術的にはあり得ないことではないんですよ。でも、望美さんは納得できないようですね」

「……そうですね」

恋心のときめきと、緊張や不安による動揺の
誤認。
言葉にしてしまえば確かに全く異なるものだろう。
それを望美が納得できないのは当然ではあるが、彼女が弁慶を好いた理由はまさにそれではないかと思っていた。
知らず茶吉尼天に意識を奪われ、身体の主導権を奪われる恐怖。
弁慶が差し向けた方法に、皆を元の世界に戻してあげたいと考えた優しい望美は、それが結果として自身を追い詰めるものだと知って動揺した。
そんな彼女に、茶吉尼天を払う方法があると提示した弁慶。
その時彼に抱いた想いは、まさしく吊り橋の上で不安からすがる思いと同じだっただろう。

けれども、と弁慶は先程の望美の問いを思い
返す。
弁慶はどうだったのか?
それもまた「同じ」と言えるのではないだろうか?
縁のないものと思っていた平穏な日常を与えてくれた望美。
そんな彼女に一瞬でも贖罪は終えたと、身勝手な考えがよぎった。
惑い揺れる心に差し伸べられた手。
それをつかみたいと、無意識に願ったのではないだろうか?

「迷宮での出来事が君への想いを変えたのは確かでしょうね」

白龍の神子として信頼していたが、恋情は抱いてはいなかった。 だが、きっかけは心の奥の願いを望美があどけなく叶えたからと言うのは、吊り橋効果だと認めるようで彼女に申し訳なく、弁慶は曖昧な言葉で断言を避けた。
偽りではない。この世界に来なければ、彼女の隣にありたいと望みはしなかったのだから。

「僕は君が好きです。この想いは変わることはありません」

だから真実を告げれば、頬が淡く色づいて、照れくさそうにそれでも嬉しいですと笑う望美が愛しくて、テーブル越しに彼女の頬に触れる。
そうして、彼女が失われなかったことを心から
安堵すると、もう一度想いを彼女にささげた。

2017/01/13
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