消えた記憶の片隅で

弁望87

風に揺れた髪が望美の視界を遮ると、弁慶が申し訳なさそうに見る。

「すみません、大丈夫でしたか? やはり切った方がよさそうですね」

「え? どうしてですか?」

「この世界の男性は短い方が多いですし、今のように君に危害を加えることもありませんから」

弁慶の言葉に彼の髪に手を伸ばして、琥珀の柔らかな感触にするりと「このままがいいです」と言葉を紡ぐ。
確かに彼の言うとおり髪の長い男性は稀だが、胸の奥で嫌だと反発する声がして、そんな自分にひどく戸惑う。

「私は……弁慶さんにありのままでいて欲しいから。周りに合わせてとか、私のことを気にしてならそのままでいてください」

弁慶がそうしたいなら本人の希望に沿えばいいはずのことなのに、どうしてこんなにそのままでいることを望むのだろう。
どこか言葉が上滑るのを感じながら告げると、ふふと弁慶が甘く笑う。


「そんなふうに君にお願いされたら切れませんね」

「あ、弁慶さんが邪魔だっていうならいいですよ?」

「構いませんよ。元々この長さですし、こだわりもありませんから」

自分の要望を押しつけたようで慌てるも、弁慶は別段気に留めなかったようでホッと胸を撫で下ろす。
そして、ひどく安堵している自分に戸惑う。

望美自身、もう知ることのないあの世界での消えてしまった記憶。
清盛に勝ち、黒龍を呪いから解放して弁慶と二人で過ごしていたあたたかな時間。
何故その幸せな時間を捨てて新たな時空へ旅立ったのかをもう知るものはいないが、望美が逆鱗で遡り、新たな和議への道へ進んだからこそ今、この世界で弁慶と共に在った。
その消えた記憶の片隅の思いが弁慶の髪を惜しんでいることを、望美が知ることはない。
茶吉尼天に喰われ、迷宮と共に失われた記憶はもう望美の内に還ることはないのだから。
だから望美はこの世界で新たな時間を弁慶と紡ぐ。
切に――彼と幸せになることを願って。

2018.10.11
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