時を重ねて

弁望85

「そういえば……」

ふと数ヶ月前の出来事を思い出した望美は顔を
曇らせた。
望美の心のかけらに根を張り、その身を奪い取ろうとしていた茶吉尼天に、弁慶は迷宮内の怨霊をすべて封じることで白龍の力を取り戻させ、その影響をはねのけた。
だが茶吉尼天に喰われてしまった魂はすべて取り戻せたのか、望美にはわからない。
失われていた時でさえ、失ったということを認識できていなかったのだから。

「もしもまだ記憶が失われていたら……」

気づいた時にはすでに抜け落ちた状態だったために、それが何の記憶であったのか望美にもう知る術はない。
けれど心のかけらを取り戻すたびに思い出していったのは、あの遙か時空の向こうでの出来事ばかりだったので、もし失われた記憶があるのだとしたらそれは異世界でのものなのだろう。

「弁慶さんとの思い出だったら嫌だな……」

出会い、共に戦う中で想いを交し合った弁慶。
その思い出を自分だけが失ってしまっているかもしれないという事実が望美の心に影を落とす。
心の欠片に巣食う茶吉尼天の干渉に抗いながら
手に入れた今の平穏。
自ら封印として用いていた記憶は、あの世界での大切な想いだった。
だから、見つけられなかった心の欠片が、まだ
あの失われた迷宮に残されていたのだとしたら、大切な弁慶との思い出を失ってしまったのかもしれなかった。

「こんにちは、望美さん。お待たせしてしまったようですね」

「弁慶さん、こんにちは。そんなことないですよ。私も少し前についたところですから」

目の前に腰を下ろした弁慶に微笑むと、二人そろって紅茶を注文する。
望美が弁慶と待ち合わせたのは、海の傍の喫茶店。
以前、弁慶が連れてきてくれて以来、ここは二人のお気に入りの場所だった。

「よければ君が何を考えていたのか、教えてもらえませんか?」

「……別に大したことじゃないんです。ただ、私は何を忘れてしまったのかな、って」

望美の返答に、弁慶は目を見開くとわずかに視線を落とす。
それが何を指しているのかすぐにわかったのだ。

「……すみません。茶吉尼天が奪った君の魂が
どれほどだったのかは僕にもわかりません」

「弁慶さんのせいじゃないんですから、謝らないでください!」

和議の場で茶吉尼天が望美を襲い、その魂を喰らい、この世界にやってきてしまったことは不可抗力だった。

「それに弁慶さんたちが一緒に来てくれたから、私は茶吉尼天の呪縛から解かれたんです」

もしもあのまま一人この世界に戻ってきていたら、望美は知らぬうちに心の欠片に残った茶吉尼天によって自我を奪われ、操られていただろう。

「私が気になるのは……弁慶さんが覚えていて、私が忘れていることがあったら申し訳ないと思って……」

積み重ねてきた時間は、望美だけではなく弁慶の思い出でもある。
そのことが何より望美にとっては辛かった。

「望美さん」
柔らかな呼びかけに俯いていた顔をあげると、
そこには愛おしげに見つめる琥珀の瞳。

「君に失われた時があっても、それを僕が共有しているのなら君に伝えればいい。そうやって、
これからも二人共にあればいいと思いませんか?」
「弁慶さん」

たとえ失った【時】があったとしても、想いが
欠けてしまうわけではない。
失ってしまったのなら、また新しく積み上げていけばいいのだ。

「それに、失う【時】は何も茶吉尼天のみが奪うのではないですよ」

「え?」

「たとえば……一昨日の夕飯は何を食べたか覚えていますか?」

「一昨日ですか? えっと……」

「ふふ、人は忘却していく生き物です。だから、すべての思い出をずっと抱えていることはできないんですよ」

言われてみれば、幼い頃の思い出もいくつかは
思い出せても、アルバムに収められてる写真を見ても思い出せない【時】があった。

「そうですね。何を失ったんだろうって、それ
ばかり気にしてたけど自然に忘れてしまってることだっていっぱいあるんですよね」

「ええ。ですが、君には忘れないでほしいこともあります」

弁慶が触れた指先にあるのは、彼から贈られた
指輪。
この先の未来を約束した大切な証。

「いくら私が忘れっぽくても、これは絶対忘れません」

「それはよかった。忘れられたら僕は存在意義を失ってしまいますから」

そんなの大袈裟です、とは笑えないのは弁慶が
望美のために自分の世界を捨て、この世界に残ってくれたことを知っているから。
だから触れた指先に指を絡めると、ぬくもりを伝えながら微笑む。

「いつかその時のために、私もお料理頑張りますね。弁慶さんが胃薬を自分用に調剤しなくて済むように」
「ふふ、それは楽しみですね」

茶化した言葉に隠された望美の想いをきちんと汲み取って、弁慶はその想いを大切に受け止める。
すべての勝手が違うこの世界は、決して弁慶に
優しいとは言えないけれど、それでも生きて行こうと思えるのはこのぬくもりがあるから。
これからも共に分け合い、積み重ねていく【時】に、弁慶は幸福を感じた。
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