熊野の夜

弁望65

「そういえば望美が気に入ったあのワインあるよ?」

明日、京へと戻る弁慶と望美のために開かれた
宴の席で、ヒノエが赤ワインを取り出す。
望美が嬉しそうに受け取ろうとするが、隣の鋭い視線を受けて、おずおずと伸ばしかけた手を引っ込めた。

「なんだ? 望美ちゃんは酒が飲めないのか?」
「あまり得意な方ではないんですよ。ねえ?
望美さん?」

湛快の問いににこりと微笑み見る弁慶に、望美は渋々頷く。
確かに日本酒は苦手なのだが、ヒノエが手にしているあのワインだけは、甘くてかなり好きなのである。
しかし、以前飲んだ時にどうも何かをしてしまったようで、以降弁慶に禁酒を申し渡されてしまったのだ。

「そんなことないだろ? 前に同じものを贈った時は、飲んだって言ってたじゃん」

なおも食い下がるヒノエに、弁慶が冷ややかな
視線で応酬する。
望美へ二度も手出しされて、すっかり最重要危険人物認定されたヒノエは、弁慶が最も警戒している人間だった。
ワインを口にさせたら最後、以前のようにこの場にいる者に絡みかねない望美の姿を、ヒノエに
だけは絶対見せたくはなく、弁慶が断固拒否する。

「あれは社交辞令です。望美さんは一口ほどで
すぐに酔ってしまったので、ほとんど僕が飲みました」

「ふ~ん……なら、せっかくなんだから一口だけでも飲ませてやればいいだろ?」

バチバチっと音が聞こえそうなほど火花を散らす二人に、望美が慌てて間に入る。

「ヒ、ヒノエくん。私明日帰るし、悪酔いしちゃうと困るからやめておくね」

「二日酔いしてもしっかり看病できる奴が傍に
いるだろ?」

「気分の悪い妻を引きずって帰れと君は言うのですか?」

望美の制止もむなしく、二人の攻防は止まらない。

「お前がそこまで止めるって言うことは、何か面白い理由があるんだな?」

にやりと口の端を上げる湛快の瞳には、ヒノエ
同様に事態を面白がっている光が宿っていて。
弁慶は眉を寄せて牽制する。

「何と言われてもダメですよ。望美さんには一口も飲ませませんからね」
「それじゃ、お前が代わりに飲むか?」
「そうするより他に手はないようですね」
「弁慶さん!?」

滞在中、屋敷は連日宴会状態で、湛快やヒノエはもちろん、水軍衆がかなりの酒豪ぞろいであることを見ていた望美は、心配そうに弁慶を見る。
弁慶もそれなりにたしなんではいるが、普段二人で生活している時は全くといっていいほど口にしないので、さすがに心配になる。
自分を庇って陥った危機に顔を曇らせる望美に、弁慶がいつもの笑みを返す。

「大丈夫ですよ」
「でも……」
「君は絶対に飲んじゃいけませんからね?」

こくんと頷くと、弁慶の杯にどんどん注がれていく様をはらはらしながら見守る。

「そんな心配しなくても大丈夫だ。あいつが黙ってやられるような奴じゃないことは、望美ちゃんもよく知ってるだろ?」

余裕淡々な笑みを浮かべる湛快に、望美も頷く。
しかしこうまで盛り上がった場で、しかも辞退は絶対許されない状態では、さすがの弁慶でも大変では……と、不安は尽きない。

「しかし、あいつがこうまで惚れこむとは驚かされたよ」

「え?」

「以前のあいつなら、誰かのために自分を危険にさらすなんざありえなかったからな」

「そうですか?」

「ああ」

弁慶を見つめる湛快の瞳が優しくて、望美も釣られるように彼を見る。
確かに弁慶は笑っていても心の奥底では何を考えているか分からないところがあるけれど。
それでも、決して冷たい人間などではなかった。

「あいつを変えたのは望美ちゃんだな」
「私は何もしてませんよ?」
「お嬢ちゃんの存在があいつを変えたんだよ」
「……」

湛快の言葉に、望美は首を傾げてしまう。
迷惑こそかけ、自分が弁慶のためになっているとは到底思えなかった。
そんな望美の様子に、湛快はがははと豪快に
笑う。

「弟に息子の心まで奪った神子姫様は、自分の
魅力には疎いようだな。まぁ、それが望美ちゃんの魅力なんだろう」
「おい、あんまり望美に絡むなよ?」

そのまま抱き寄せかねない湛快を、いつの間にやら近寄ったヒノエが牽制する。

「お前こそ、な~に蚊帳の外にいやがんだ?
お~い、頭領の杯が空だぞ!」
湛快が呼びかけると、途端にヒノエが取り囲まれる。

「この……っくそ親父!」
「堂々と神子姫を競って来い」
顔をしかめるヒノエに、湛快が笑って望美を引き寄せる。

「望美さんへ手を出せば、たとえあなたでも許しませんよ?」

次々注がれる杯を開けながらも、しっかりとこちらを見る弁慶に、望美が苦笑を漏らす。

「野郎共! 今日は無礼講だ! 夜通し飲み明かすぞ!!」
湛快の宣言に、水軍衆が雄たけびを上げる様に、望美と弁慶はため息をついた。

* *

「やっぱり最後に残ったのはお前か」

夜も大分更けた頃、酒の匂いが充満し、高らかなイビキが響き渡る部屋で、湛快が杯を傾けながら笑う。
彼の隣では、すやすやと眠る望美の姿。

「一服もっただろ?」
「さぁ? どうでしょうね?」
にやりと口の端をあげる湛快に、弁慶が涼しげな笑みを返す。
水軍衆がいつになく酔いつぶれたのが、酒だけではないことは明らかだった。

「相変わらず姑息な奴だな」
「あれだけ煽っておいて、ずいぶんな言い草ですね」
言外に認める弁慶に、湛快が口元を緩ませる。

「あれも、お前にはまだかなわんようだな」
「甥に負けるようでは立つ瀬ありませんからね」

弁慶の薬を警戒していたヒノエに、何重もの人の手を介させて結局は服用させることに成功したのだった。
熟睡する息子に苦笑しながら、弁慶を見る。

「正直、お前がそこまで惚れこむ女が現れるとは思わなかったぞ」
「……僕も思いませんでしたよ」

湛快の言葉に、弁慶は傍らで眠る望美を見つめて微笑む。
徒党を組んで荒れていた時分、数知れないほどの女をこの手に抱いたが、誰一人彼の心を捕らえることは出来なかった。

「まぁ、お前が身を固める気になったのはいいことだ。また遊びに来いよ。ここはお前の故郷なんだからな」
望美を抱き上げ、寝室へ戻ろうとする弁慶の背中に声をかける。
その言葉に、弁慶は肩越しに振り返りながら微笑んだ。

すっかり静まり返った屋敷の中、敷かれた布団に望美をおろす。
弁慶との約束を守ったようで、あれだけ酒が溢れる中で、望美からは一切酒の匂いがしなかった。
無邪気な寝顔の望美にそっと口づける。

「本当に……君にはかないませんね」

望美を助けるためならば、たった一人ででも敵陣に乗り込んでいくであろうというぐらい、弁慶は己が深くのめりこんでいることを悟っていた。

「これだけ僕を惹きつけられる人は、他にはいないのですからね」
呟いた本音に、望美がかすかに瞳を開ける。

「ん……弁慶……さん?」
「起こしてしまいましたか?」
「ううん……大丈夫でした?」
夢現の中でも弁慶を気遣う望美に、弁慶が優しく微笑む。

「ええ、大丈夫といったでしょう?」
「うん……」
頷くと、瞳がまた閉じられる。
安堵の中で眠りに誘われる望美に、弁慶も傍らに寄り添うとそっと抱き寄せて眠った。
Index Menu ←Back Next→