舞い降りた天女

弁望66

「そういえばお前、嬢ちゃんにしばらく手を出さなかったんだって?」
にやにやと笑う湛快に、弁慶が眉をしかめる。

「……烏にそんな情報まで集めさせてるんですか?」

悪趣味な……と忌々しげな呟きに、湛快がおかしそうに大笑いする。
目の前に座す弟・弁慶は、いつも穏やかな笑みを絶やさない、一見穏やかそうに見える好人物なのだが、その実は源氏の軍師を務めるほどの策略家だった。
そんな弁慶が、湛快の隣りで無邪気に眠っている望美を大切にするあまり、同じ家で暮らしながらもなかなか手を出さなかったというのである。

「神子姫の清廉さは、さすがのお前でも手ごわかったか」
「彼女だから、ですよ」

もともと色恋に関心がなく、策として必要でなければ女を相手にすることもなかった弁慶なだけに、弟の変化が湛快は嬉しくて仕方なかった。
だが弁慶には嘲られているようなもので、冷ややかな表情を返すも普段よりも多く煽った酒が隠した想いを吐露させる。

「天上より舞い降りた清らかな天女である望美さんを、咎人である僕が触れてしまって良いのかと……どうしても躊躇わずにはいられなかったんですよ」

かつて清盛の力を削ぐために、弁慶は応龍の命を絶った。
それにより一度は清盛を滅ぼすことが出来たのだが、企みを逆手にとった清盛は黒龍の力を使って、あろうことか怨霊として蘇ってしまったのである。
はからずもその力を与えてしまった弁慶は、酷く悔やんだ。
龍の加護を失い、荒廃していく京への償いのために、己の人生を犠牲にしようとしていた弁慶を
救い出してくれたのが、傍らで眠る龍神の神子・望美だった。

「お前の働きで応龍も復活し、京への龍神の加護は戻ったんだ。お前の贖罪はすんだはずだろ?」

湛快の言葉に、弁慶はただ黙って笑む。
たとえ京に龍神の加護が戻っても、失われていた間の人々の苦しみは消せはしない。
だから弁慶は、生きている間一生をかけて償い続けるつもりだった。
そんな弟の性格を知っている湛快は、内心の苦味を隠して笑う。

「まぁ、俺がいくら言ったところで、お前の頑固さは変わらんだろう。お前のことは望美ちゃんに任せるさ」

いつも前を見つめて歩いていく望美は、ともすれば過去に囚われる弁慶を救う一条の光のような
存在だった。

「本当に……どうして望美さんは、僕を選んだのでしょうね」

眠る望美の頬に降りかかった髪をそっと指で払いながらの弁慶の言葉に、湛快が目を細める。
それはずっと弁慶が抱いていた疑問だった。
いくら突き放そうとしても、まっすぐに弁慶を
見つめ追ってきた望美。
厳島へ向かう船の中で望美が告げた言葉を、始めは理解できなかった。
平穏な世界を捨ててまで、時空を超えて自分の
もとへと戻ってきたという望美を。
龍神の神子である彼女を自分の目的の為に利用し、苦しい思いを幾度となくさせたのはほかならぬ弁慶だったからだ。
そんな弁慶をどうして望美はそこまでして救いたいと願うのか、本当は心の奥では理解しながら、自分には許されない想いだと目隠ししていた。
しかしまっすぐに向けられる瞳にどうしようも
なく囚われたと悟った時には、弁慶は望美を手放せなくなっていた。

「神子姫にそこまで惚れられるなんざ大したもんじゃねーか。あんまり大切に敬いすぎると横からヒノエにかっさらわれるぞ?」

やんちゃ息子が望美に惚れていることを知っている湛快は、あながちありえなくもない話を振ると、不適な笑みが返される。

「この僕が愛する妻をヒノエなんかにとらせるわけがないでしょう?」
愛しげにそっと髪を撫でると、夢の中の望美が
かすかに微笑む。

「“愛する妻”ねぇ……。そんな台詞をお前から聞けるとは、神子姫の魅力は絶大だな」

「えぇ。僕のために羽衣を捨てて舞い降りてくれた天女ですからね」

愛しそうに望美を抱きかかえると、肩越しに微笑み、部屋へと戻っていく。
そんな弁慶の後ろ姿に、湛快は杯を掲げる。
それは人生を新たに生きることを誓った弟への
祝福だった。
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