熊野に来ることを弁慶は渋るが、望美は普段見れない一面に触れられると好ましく思っていた。
実の兄である堪快や甥のヒノエに関わる時の彼は、策を弄す軍師でも患者を診る薬師でもなく、素の弁慶その人だったからだ。
「ふう~」
「大丈夫ですか? 久しぶりの山道で足も疲れたでしょう。少しこの辺りで休みましょう」
「だめですね。すっかり身体がなまっちゃったみたい。今度からもう少し身体を動かすよう、気をつけますね」
「……程々でお願いします」
望美の言葉に弁慶は困ったように微笑むと、傍の川で水を汲んで望美に差し出す。
「この世界のお水って本当においしいですよね」
「そうなんですか?」
「はい。向こうにいた時はわからなかったけど、初めて水を飲んだ時にびっくりしました」
よく湧き水は違うと耳にしたが、ここまでの違いはきっとあちらでは感じられなかっただろう。
「……懐かしいですか?」
問う声に含まれたかすかな憂いを感じ、望美は首を振るとにこやかに微笑む。
「帰ってもいいなんて言ったら怒りますよ? 私は弁慶さんの傍にいるって決めたんです」
「言いませんよ。僕はもう、君を手放すことなんて出来ませんから」
「……なら、いいです」
躊躇うことなく否定されたことが照れくさくて、望美は染まった顔を隠すように俯いた。
この熊野に来るまで、望美は弁慶の気持ちがわからずにいた。
共に暮らしているのに以前と変わらぬ態度に困惑していたのだ。
けれど、ここ熊野に眠る彼の両親の前で、弁慶は告げてくれたのだ。
ずっと共に生きていきたい――、と。
それはずっと、死を覚悟して贖罪の道を歩んでいた弁慶が初めて生を意識した瞬間。
あの時の喜びを、望美は一生忘れることはないだろう。
「そろそろ行きましょうか。ヒノエが落ち着きなく待っているでしょうからね」
「ふふ。今回はどんなサプライズを用意してるんでしょうね」
遊びに行くたびに、膳に乗りきらないような豪華な魚や珍しいお酒などを用意してくれるヒノエ。
「ヒノエも兄も、君のことが好きですからね。
きっとまた色々用意していると思いますよ」
ため息混じりの返答に隠された喜びに、望美が
笑顔で立ち上がる。
「行きましょう、弁慶さん」
「はい」
差し出すと、握り返される手。
そんなささやかな幸せがどうしようもなく嬉しくて。
妻のこぼれおちそうな喜色の面に、弁慶もゆるやかに微笑んだ。