これだけはどうしても

弁望62

「へえ……それはぜひ見てみたかったね」
この間起こった出来事の顛末を聞いたヒノエの
言葉に、望美はん? と首を傾げた。

「ヒノエくんは見たことあるんじゃないの? 17歳の頃の弁慶さん」
「俺が見たいのは、麗しく花開いた姫君だよ」

相変わらずの疎さに、ヒノエは苦笑しながら望美を見た。
共に旅した神子姫も、いまや叔父の妻。
しかし珍しく執着した存在故に、結婚した今も
弁慶の留守を狙っては、こうして二人の住まいを訪れていたのである。

『それがヒノエの願い?』
「え?」

突然響いた声に、二人が驚き空を見る。
辺りに鳴り響く鈴の音は、聞き覚えのあるもので。
その名を口にしようとした瞬間、望美の身体が
淡く輝いた。

「く……っ、大丈夫かい? 望美」

眩んだ視界に目を細めながら少女をみるや、ヒノエの動きが止まる。
そこにいたのはいつもの少女ではなく、一人の女。
身体に見合った乳房は、衣の上からも分かるほど豊かに。
肩からこぼれる紫苑の髪が頬にかかる様まで艶めかしくて。
伸びた四肢に、くびれた腰。
化粧などしていないというのに、漂う色香にこくりと喉が鳴った。

「あ~また大人になってる……」
自分の身体を見てがくりと肩を落とした望美に、ヒノエはそっと髪を一房手に取ると、優雅に口づけた。

「お前はその姿が気に入らないのかい?」
「気に入らないっていうか、今の私じゃないし」
「でも、そう遠くなく得る姿だろ」
そう微笑むヒノエの瞳は、いつになく艶めかしくて。
本能的に危険を察したのか、望美は思わず身を
引いた。

「――そんな顔をすると、逆に煽るだけだよ?」

囁きと共に捕らわれた身体。
抱き寄せる腕は、小柄な外見からは想像出来ぬほど力強く、顔馴染んだヒノエが男であることを強く意識させた。

「ヒ、ヒノエくん、冗談はよして」
誤魔化すように笑って離れようとするが、腕は
緩まず。

「本気だって言ったらどうする……?」
吸い寄せられる1対の紅玉を、望美は身じろぐことも出来ずに見つめていた。
下りてくる唇。 それが望美に重なろうとした
瞬間、恐ろしい殺気にヒノエは身を引いた。

「本当に邪魔なやつだよな」
「え? あ、弁慶さん!」

はっと我に返った望美は、戸口に立つ姿にヒノエの腕をすり抜けると、さっと駆け寄った。
そうして傍らに立つ妻の姿を見て、弁慶は深々と息を吐いた。

「また白龍ですか?」
「うん……」
困ったように頷く望美に、眉間にしわが寄る。
以前も見た花開いたその姿は、甥を惑わすには
十分すぎるほど魅惑的だった。

「殴られる前に出て行きなさい。それとも、追い出されるのを望みますか?」
端的な命に、しかしヒノエは立ち上がるそぶりも見せずに、唇をつりあげた。

「白龍は俺の願いを叶える、と言ったんだぜ?
俺が満足しない限り、望美は元に戻れないんじゃない?」
「ええ!?」

ヒノエの言葉に、望美が焦る。
確かに以前も、元に戻ったのは数日後だったのである。

「白龍は神子である望美さんをこの上なく愛しています。彼女が戻りたいと強く願えば、それを無視する事はないでしょう。
いらぬ心配は無用ですから、どうぞお帰りなさい」

柔らかな笑みをそのまま受け止めることがどれほど危険か知っているヒノエは、顔をしかめると渋々の体で立ちあがった。

「この先ずっと、こうして花によりつく虫を払うつもりかい?」
「かけがえのない花ならば当然でしょう」

暗にこの先の未来を講じれば、即座に返ってきた答えにムッと身を翻した。
ヒノエの気配が完全に遠ざかったことを確認すると、弁慶はふぅと息を吐き出した。

「白龍にも困ったものですね……」

己の神子を溺愛するばかりに、こうしたトラブルを引き起こすのは甚だ迷惑だった。
そうした弁慶の苛立ちを感じたのだろう、望美は慌てて取り成すように口を開いた。

「白龍には悪気はないんだと思うんです。ただ、ヒノエくんを喜ばせ……」
「喜ばせようと思い、君の姿を変えたのでしょう? 迷惑な話です」
望美の言葉尻を引き継いだ弁慶に、眉を下げる。
悪気はないとしても、よりにもよってあの甥の
願いを叶えることはないだろうと、弁慶が憤慨するのは当然だった。

脳裏に浮かぶ、先程の光景。
望美を引きよせ、あろうことか口づけようとしていたヒノエ。
手を出した報いをどう受けさせようかと考えていると、思わぬ望美の言葉に目を剥いた。

「私なら別に大丈夫ですから、ヒノエくんに意地悪しちゃダメですよ?」
「――大丈夫?」
すっと細まる瞳に、びくりと肩が震える。

「君はあのままヒノエに口づけられていても構わなかったと、そう言うんですか?」

「そ、そんなこと……っ」

「あの時、僕がもう少し帰るのが遅ければどうなっていたか……。君は無防備すぎます」

言葉に込められた非難の色に、望美はきゅっと唇をかんだ。
確かにあの時、ヒノエはいつにない艶めいた瞳で見つめていた。
それでも、共に旅した仲間であり弁慶の甥でも
ある彼が、自分達の仲を引き裂くような真似をするはずがないと望美は思っていた。

「弁慶さんは心配し過ぎですよ。ヒノエくんが
そんなこと、するはずないじゃないですか」
そう言いかえした瞬間、家の空気が冷やかなものへと変わった。

「――そうですか。君は夫である僕の言葉が信じられないと、そう言うんですね?」
「私は……っ」
「わかりました」

一方的に話を終えると、薬箱を置いて身を翻す。
そのまま出ていこうとする弁慶に、望美が慌てて声をかけた。

「出かけるんですか?」
「僕は狭量な男のようですから、少し頭を冷やしてきますよ」

突き放すような冷たい響きに愕然とすると、弁慶はそのまま出ていってしまった。
それから一刻、ニ刻が過ぎても弁慶は戻って
来ず。

「どこ行っちゃったんだろう……」

すっかり冷めてしまった夕飯を切なげに見つめていると、ぽろりと涙がこぼれた。
九郎のところか、はたまた景時のところか?
弁慶の行きそうな場所を思い浮かべて逡巡すると、望美は腰の湯巻きとたすきを取った。
外は日が暮れ始めており、あまり夜目の利かない望美は、迎えに行くならば早々に出ねばならなかった。

護身用に女性用の懐剣を持って、五条の町を駆けて行く。
そうして人通りの少ない路地にさしかかった時、道を遮る者が現れた。
見るからにガラの悪そうな男が数人。

(盗賊? 嫌なのに会っちゃったな……)
急いでいるのに、そのまま見過ごしてはくれそうにない相手に、望美は懐剣に手を伸ばした。

「いい女だな。高値で売れるんじゃねえか?」
「その前に俺達で味見も悪くねえな」

下卑た笑みを浮かべる人売りの男達に油断なく
構える。
本当ならば長剣の方が扱いなれているのだが、
戦場に出なくなった今ではそのようなものを持ち歩くわけにもいかず、望美は油断なく相手の行動を見据えた。

「そんな物騒なものよこしな、姉ちゃん。悪いようにはしねえからよ」

「売り飛ばされるのも、手ごめにされるのもごめんだわ」

無遠慮に伸ばされた腕を剣で払うと、思いがけない反撃に男が目を剥いた。

「こいつ……俺に傷を負わせやがったぜ……!」
「お前が鼻の下伸ばしてるからだろ?」

気色ばんだ男を仲間が嘲るが、今ので完全に怒らせてしまったようで、男達は望美を取り囲み始めた。
飛びかかってきた男の鼻を裂き、次の男の攻撃をかわしながら、いつもと勝手の違う身体に眉をしかめた。
大きくなった胸は剣を振るう度に揺れて邪魔をし、伸びた四肢はいつもの間合いを狂わせる。
そうした些細な狂いが隙を生み、一人を振り払ったところを後ろから羽交い絞めにされた。

「はぁ、はぁ、気の強い女だぜ……っ。だがこうしちまえば、手もだせまい?」

息を切らせながらにやりと笑んだ男に、唇を噛む。
力で男にかなうはずはなく、捕らわれる前に倒せなかった望美の負けだった。

「近くで見ると、本当にいい女だな」

値踏みするように全身を舐める視線に身震いする。
情欲に淀んだ瞳は暗く、生理的な嫌悪が全身を
駆けまわった。
瞬間、光が軌跡を描くと、ぎゃあっと男の叫び声が響き渡った。

「な、なんだ? どうした?」
「あいつだ!」
何が起こったか分からずうろたえる男に、仲間の一人が前を指差した。
暗闇の中から現れたのは、薙刀を手にした男。

「弁慶さん!」
「弁慶? ああ、最近住み着いた薬師か」
望美が口にした名に思い当った男達が笑む。

「薬師の先生がずいぶん物騒なものを持ってるじゃねえか」

「こいつはあんたの女か? 悪いが俺達が頂くぜ」

対峙した相手の力量を図れない男達は、一見優男風の弁慶を侮っていた――が。

「ぐほっ!」
「ぐがっ!」
ぶん、と空気を切り裂く音と共に響く、くぐもった声。
一振りで3人を叩き伏せると、望美を捕まえている男の鼻先に切っ先を突きつけた。

「鼻を失くして余世を過ごしますか? ――彼女から手を離しなさい」
鋭い眼差しに蛇に睨まれた蛙の如く、恐れをなした男は慌てて望美から手を離すと、仲間を見捨てて逃げようとする。
しかしそれを見逃す弁慶ではなく、素早く薙刀を振って背後から強打すると、男は低く呻いて地面に伏せた。

「役人に連絡と、縄を持ってきてもらえますか?」
「は、はい!」

頷き、近くの民家に通報を頼むと、縄を借りてのした男達を縛り上げた。
そうして駆けつけた役人に荒くれ者たちを委ねると、弁慶はすっと手を差し伸べた。

「帰りましょう。また、絡まれては大変ですからね」
「は、はい」

数刻ぶりのぬくもりに安堵が広がる。
先程までの緊張が解かれ、望美は弁慶と並び歩きながら、傍らにある存在が今更ながらに大切で
愛おしいことを感じていた。
そんな満たされた思いで家にたどりついた望美は、中へと入った瞬間強く抱き寄せられた。

「弁慶さん?」
「……君が無事で良かった」

心より案じていたのだろう、声色に望美は自分の不用意さを後悔した。
小さな懐刀を手に夜道を一人歩き回り、身を危険にさらしたこと。
それは過信に他ならなかった。

「君に夜道を一人歩かせたのは、僕の落ち度です。僕がヒノエに嫉妬して、家を出るなどしなければ君を危険にさらすことはなかったのですから」

「それは、もとはといえば私が……っ」

言いつのろうとした望美の肩にとん、と弁慶の頭が乗る。

「荒くれ者に捕らわれた君を見つけた時、心の臓が止まるかと思いました」

感情を押し殺した声。
それは、棒色の髪が覆い隠して見えない彼の思いを、何よりも伝えていた。
弁慶の言ったことを信じず、彼を怒らせ。
不用意に一人で夜道を歩き、身を危険にさらした。
それらは全て望美の過ちだった。

「ごめんなさい……っ」
腕をのばしてぎゅっと抱きしめながら謝ると、
弁慶が伏せていた顔をあげ微笑む。
そうして眦にたまった涙を拭われると、それが
呼び水となってとめどなく溢れ出した。

「無茶はしないでください。僕にとって君はかけがえのない人なのですから」
優しく諭す声に、望美はこくこくと頷き、その
肩を濡らした。

* *

「――これは何の真似だよ」
戸を開けた瞬間に向けられた薙刀に、ヒノエが
顔をしかめると、弁慶はにこりと微笑んだ。

「君には当分うちへの出入りを禁止する事にしました」

「はあ? 望美を心配してはるばる京までやってきた甥にずいぶんな仕打ちじゃない?」

「心配は無用、と申したでしょう? それに、
普段身内だなどと思っていないくせに、こんな時だけ使うのはどうかと思いますが?」

にこり。にこり。
顔は笑顔なのに、容赦なく突きつけられる薙刀に、渋面を浮かべていたヒノエがふっと口角をつりあげた。

「花に会うには策が必要ってわけだ?」
「いつまでも目移りせず、君だけの花を見つけなさい。ヒノエ」
告げられた言葉に顔をしかめると、弁慶の後ろで戸惑っている望美を見る。

「今日はうるさい門番がいるから引き下がるけど、このまま引くほど浅い想いじゃないんだって覚えておいて? 姫君」

ぱちんと音が聞こえそうなウィンクをすると、
掌を振って踵を返す。
そうして見えなくなった背に、望美は困ったように弁慶を見上げた。

「弁慶さん。立入禁止はやりすぎじゃ……」
「君はまだ分かっていないんですか?」

薙刀を下ろしてため息をつく弁慶に、眉を下げる。
白龍に願って姿を元に戻してもらった際、弁慶はヒノエの願いは聞かないようにと念を押していた。
そして今日の仕打ち。
あれはあまりだと思うが、望美にも反省するところがあるので強く言えずにいた。

「これだけは言っておきます」
「は、はい」
改まって向き直った弁慶に、望美が慌てて背筋を伸ばす。

「君は誰よりも美しく、誰もが惹かれてやまない至宝の花なのだと自覚してください。無知は無謀と同じなのですから」
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