荒法師の面影

弁望45

久しぶりに朔と連れ立って市を歩いていた望美は、突然腕を引かれ、驚き相手を振り返った。

「お前、名は?」
「へ? 望美ですけど……」
「望美か。風変わりな名だな。……うむ、決めた!」
勝手に一人盛り上がっている、いかにも世間知らずのいいとこのぼっちゃんというふうな貴族に、望美は困ったように隣の朔を見た。
親友の危機に、朔はすっと表情を固めると、冷ややかに相手を睨みつけた。

「突然女性の腕を取るなど、ずいぶん手荒くは
ありませんか?」
「ん? おお! よく見ればお前も美しい女子だな。よし、二人とも僕の側室にしてやろう!」
「そ、側室ぅ……!?」

全く人の話を聞かない目の前のぼんくら貴族に、望美と朔は目を丸くした。
突然人の腕を掴んだかと思えば、この暴言。
あまりの常識のなさに、望美はふつふつと湧き
上がった怒りに、捕まれた腕を力任せに振り解いた。

「ふざけないで! 誰が側室になんてっ!」
「何を怒る? 僕は院の覚えもめでたい権少納言だぞ? その僕が側室にしてやろうって言ってるんだ。嬉しいだろう?」
全くかみ合わない会話に歯ぎしりする。

「権少納言だかなんだか知らないけど、私結婚してますからっ!」

「なに? ……ふん。どうせ相手は商人ふぜいだろう? そんな者と一緒にいるより、よほどいい暮らしが出来るぞ」

「大きなお世話ですっ!」

大好きな夫のことを『そんな者』呼ばわりされ、望美の頭に血が上る。
周囲に目をやり、手近なそこいらの棒ででも追っ払ってやろうかと思った時、落ち着いた声音が
響き渡った。

「――これは何の騒ぎです?」
「弁慶さん!」
見慣れた姿に、強張っていた望美の顔が和らぐ。
そんな望美に柔らかく微笑むと、弁慶は穏やかな微笑を浮かべたままで、凍てつくような眼差しを相手に向けた。

「大変申し訳ありませんが、この女性は僕の大切な妻です。側室をお探しでしたら、他を当たってくれませんか?」

口調こそ穏やかなものの、その瞳は相反する光を宿していて、目の前の貴族は蛇に睨まれた蛙の
ごとくその場に凍りつく。

「――手を」
「ひぃ……っ!」
「放してもらえませんか?」
スッと細められた双眸に、貴族が慌てて掴んで
いた望美の手を離す。

「このような場所で軽々しく院の御名を出されるのは止した方がいいと思いますよ? 誰が聞いているかわかりませんからね」

「く、薬師ふぜいにとやかく言われる筋合いは
ないぞっ!」

負け犬の遠吠えよろしく反論を試みるも、棒色の双眸に押し負けてすぐに口をつぐむと、足音荒く去って行った。

「なにあの人! 本当に失礼しちゃうっ!!」

自分に対してではなく、弁慶への態度に怒りを
露わにする望美に、弁慶は先程までの剣呑な瞳を綺麗に消して、愛しさが溢れた眼差しを向けた。

「君はいけない人ですね。こんなところでも人を惹きつけてしまうのですから」

「私が悪いんですか?」

「いいえ。君は魅力的な人だということです」

頬を膨らませた望美に、にこりと微笑むと、そっと腕を取った。

「……赤くなってますね」
「大丈夫ですよ。ちょっと強く握られたからで、こんなのすぐに治りますから」

怒りを宿した瞳に、しかし望美は気づかずに
のほほんと返す。
そんな望美に弁慶は俯くと、そっとその腕に口づけた。

「べ、べ、べ、べ、べ、べ、弁慶さんっ!?」
「消毒です。穢れは祓わなきゃいけませんから」
爽やかに微笑む夫に、望美が顔を真っ赤に染める。

「――とりあえずこの場から離れましょう?
周りの目が集まっています」
「ああ、そうですね。すみません、朔殿」
二人の世界に入っていたお惚気夫婦に(一人は強制的にだが)、朔はため息交じりに提案すると、並んでその場を後にした。


突然長の物忌みに入った権少納言を見舞った者は、ぶるぶると震えながら大量の煙にまかれ、
祈祷を受ける奇妙な彼の姿を見た。
怪訝な顔をする一同に、権少納言は怯えながら
こう口にしたという。
笑みを浮かべた琥珀の鬼が、薙刀を手に毎夜夢にやってくる……と。
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