夏の暑さより

弁望38

「暑い……」
家で一人片付けをしていた望美は、ぐったりしながら額からにじみ出る汗を拭った。
梅雨も終わり、いよいよ夏本番となった京は、
連日じめじめとうだるような暑さで、エアコンを懐かしく思わずにはいられなかった。

「本当に文明の利器ってありがたいものだったんだね~」
当たり前のように使っていたエアコンも、冷蔵庫もないこの世界。
明かりさえ灯明の油を用いたささやかなもので、夜が明けると共に起き、日が暮れたら眠るという、本来の人間らしい生活が当然だった。
そんな中で昔を懐かしく思ってしまうのは、やはり快適な環境に慣れてしまった現代人ゆえだろう。

「とりあえず、水分補給には気をつけなきゃね」

気を抜くと脱水症状を起こすほどの暑さ。
薬師の妻が暑気あたりなんて、みっともないことこのうえないのだ。

「そういえば前に、弁慶さんに怒られたことがあったよね」

それは源氏軍に同行して、熊野を訪れた時のこと。
一度炎の中で皆を失い、時空を超えた望美は違う運命を紡ぐことに必死で、知らず疲労していた
自分の身体に気づいていなかった。
そんな中、夏のうだるような暑さに汗だくになりながら、熊野への山道を歩んでいた望美は、不意に気持ち悪さを感じ、その場に立ち止まった。

「先輩?」
「望美? どうかしたの?」
「ん……なんか気持ちわる……」
気遣う譲と朔に答えようとして、ふと意識が途絶え。
気づくと、黒い人影が自分を見降ろしていた。

「気がついたんですね。ああ、そのまま横になっていてください」
「そうよ、望美」

弁慶とは反対側に座って、扇子で扇ぎ風を送る朔を、ぼんやり見つめる。
全身に噴き出る汗。
くらむ視界。
それは、夏によくテレビで取り上げられていた症状と同じで。

「これって熱中症?」
「ええ。望美さんの世界では、そういうそうですね。先程譲くんが言っていました」
望美の身体を濡れた布で拭いながら、弁慶が答える。

「望美さん、気持ち悪くはありませんか?」
「はい。くらくらするけど、大丈夫です」
「では、すこし水を飲みましょう。ゆっくりで
いいですからね」
口元に寄せられた竹筒を、こくんと一口飲む。

「あれ? これ……」
「塩と蜂蜜を少し混ぜてあるんです」

まるで現代にいた頃、よく口にしていたスポーツ飲料のような味に首を傾げると、弁慶が説明してくれた。
汗は血中の水分と一緒に塩分も排出してしまうので、大量の汗をかいた時には水だけでなく、塩も取らなければいけない、と。
それを聞きながら、ぼんやりとペットボトルの裏に同じような説明が書かれていたことを思い出す。

「みんなは?」

「先に行って、宿の手配をしています。僕たちはもう少し休んで、陽が陰った頃に行きましょう」

「すみません、迷惑をかけてしまって……」

自分のせいで遅れを取った2人に謝罪すると、
弁慶と朔が揃って顔を曇らせた。

「望美さん、君はとても大切な人なんです。
だから、無理はせずに辛い時は辛いと言って下さいね」
それは以前、生理で貧血を起こし、倒れた時にも言われた言葉で。
あの時と全く変わっていない自分に、申し訳なさが増した。

「……はい。気をつけます」
しゅんとうなだれると、冷たい掌が額を撫でる。

「君は頑張りすぎなんです。さあ、少し眠って」

幼子を宥めるような優しげな声が、子守唄のように眠りへと誘う。
その後、宿では一番風通しの良い部屋をあてがわれ。
夏バテ予防の食事を譲くんが作ってくれたり、
貴重な氷をヒノエくんがどこからか持ってきてくれたり、レモンの蜂蜜漬けを渋い顔をしながら九郎さんが差し出したりと、皆が労わってくれて。
その想いが嬉しくて、ちょっと涙が浮かんだりもした――熊野の夏の思い出。

「――望美さん?」
呼びかけに意識を今に戻すと、覗きこむ琥珀の瞳に、にこりと微笑んだ。

「おかえりなさい。今日は早かったですね」

「何か考え事……いや、思い出していたようですね」

「ふふ、さすが弁慶さんですね。夏の熊野を思い出してたんです」

「ああ」

望美の言葉に、思い出すように遠くを見つめていた瞳が、ふっと笑みを浮かべ向けられる。

「今日は大丈夫ですか?」

「はい。……と言いたいところだけど、実は
ちょっと夏バテ気味です」

「では、特製の薬湯を作りましょう」

「えぇっ!?」

「あの時の蜂蜜と塩を加えた水を、ね」

ふふと微笑む弁慶に、一瞬頬を膨らませつつも
笑って頷く。

今でも快適な現代の暮らしを懐かしんではしまうけど。
それでも、この人の隣りが私のある場所。
共に笑い、生きていきたいと願った場所だから。
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