簡単なその言葉さえ

弁望23

弁慶に乞われ、この世界に残って。
一つ屋根の下で共に暮らす生活を送りながら、
望美はある不安を抱えていた。
それは弁慶の気持ち。
君を帰したくない――そう言われた時、望美はその言葉が信じられなかった。
恋心を抱いていたのは、自分だけだと思っていたから。
だから、彼が生き残る未来を紡げたら、自分の
世界へ戻るつもりでいたのだ。

だけど、こうして共に過ごすようになっても、
弁慶の本心が望美には見えなかった。
いつも幸せそうに微笑んでくれて、不慣れな望美のひどいご飯も文句一つ言わずに食べてくれる。
けれども、何も言わず不意に一人で出かけてしまうことがあり、帰った後も何も説明はない。
そんな弁慶の態度に、もしやまた何かを一人で
背負おうとしているのではと、望美は不安だった。
夫婦となったはずなのに、八葉と神子として行動していた頃と何も変わっていないようにみえる、弁慶と望美の関係。

『私のこと 好きですか?』

聞きたくて、でも聞けずにいる言葉。
一度は耳にした言葉だけれど、それ以降は聞いたことがなく、あれは自分の願望が作り出した幻聴だったのではないかと、そんなふうにさえ思ってしまう。
――ねえ、弁慶さん。私のこと、どう思っているんですか?
あなたが求めているのは、『春日望美』ではなく、やっぱり『白龍の神子』なの?



時折望美の視線を感じ振り返ると慌ててそらされることに、弁慶も戸惑っていた。
物憂げな視線に、しかしその瞳に浮かぶ苦悩の色に、「何か聞きたいことがあるんですか?」と
問うことを躊躇ってしまう。

(君は何を思っているんでしょうか?)

自分の世界を捨ててこの世界に、自分の元に残ってくれた望美に憂いを与えている自分が歯痒い。
望美と共に生きたい――。
そう願って、彼女に乞うたというのに。

* *

「望美が思い悩んでる?」
頷く親友に、九郎は怪訝そうに眉をしかめた。

「そう思うならなぜ本人に聞かないんだ?」
「それが出来ないからこうして君に話しているんですよ」
ふうっとため息をつく弁慶に、九郎は首を傾げる。

「どうして聞けないんだ?」
「……望美さんが隠しているからです」

もともと慎重ではあるが、望美に関しては度が
過ぎるのではと思うほどの態度に、九郎は小さく息を吐くと渋々仲立ちを申し入れる。

「俺が聞いてやる」
「いえ……大丈夫です」
「お前なぁ!」
「すみません。九郎に何かをしてもらおうと思ったのではなく、たんなる愚痴なんですよ。
自分のことですから、自分でなんとかします」

すっと立ち上がった弁慶に、九郎が声をかける。

「帰るのか?」
「ええ。長く彼女を一人には出来ませんからね」

穏やかに微笑むと、九郎の邸を後にした弁慶は、おおよそ恋愛相談する相手には不向きな九郎に
頼った自分に嘲笑する。

(九郎に相談するなんて、僕もずいぶん愚かになりましたね……)
常に冷静に相手を見ることに長けていた以前の
自分からは、今の弁慶はとても想像できなかっただろう。けれど。

「君は不思議な人ですね。僕にこんな想いを抱かせるなんて」
笑みを浮かべて呟くと、愛しい少女が待つ庵へと歩を進める。



それから数日後、弁慶は望美を誘って熊野を訪れていた。
行き先は、弁慶の両親が眠る墓所。

「父上、母上……ご挨拶にきました。この人が
春日望美。僕の――大切な人です。
僕は彼女と一緒に生きていこうと思います。これから、ずっと……」

(――今、弁慶さんはなんて言った? 大切な人……?)

「すみません、だますような形でここまで連れてきてしまって。どう切り出していいものか……なかなかきっかけがつかめなくて」

照れたように告げる弁慶に、望美はふるふると
首を振った。

「びっくりしたけど嬉しいです。ここに……弁慶さんの大切な場所に来れて」

私もご挨拶させてもらってもいいですか?
そう言い手を合わせる望美に、愛おしさがあふれてくる。

「――願いがかないました」
「え?」
弁慶の唐突な言葉に、望美は不思議そうに顔を
上げた。

「以前、夢の小箱に出逢った時に、誓ったことがあるんですよ」
「夢の小箱……ですか?」
「ええ」

それは北斗星君によって無理やり精神を肉体から引き離され、連れて行かれた天界の中での出来事。
起きると共に夢幻と消えてしまうはずだった記憶は、熊野の神職の血のおかげか弁慶が忘れることはなかった。

「応龍を復活させて京への加護を取り戻す――
それら全てを成し遂げた後に、もしも残された時間があるのならば、君とゆっくりと話したい。胸のうちを全て打ち明けられるようになったその時に……僕のこの想いを君に明かそう、と」

榛色の瞳にまっすぐに見つめられ、どくんと鼓動が跳ね上がる。

「望美さん、僕は君が好きです。これからの僕は君のためだけに生きていたい。
僕の大切な君と一緒に……」
「弁慶さん……」
望美の瞳からぽろりと涙が零れ落ちる。

「嬉しい……私、分からなかったんです。
弁慶さんが求めているのは私じゃなくて、『白龍の神子』なんじゃないかって……そう思ったら不安で……」

「違います。僕が傍にいて欲しいと願ったのは、僕を一途に追いかけてきてくれた君です。
『龍神の神子』は君を彩る魅力の一つなだけなんですよ」

溢れる涙を指ですくって、そっと胸に抱き寄せる。
薬草のにおいが染みついた弁慶の香りに、望美の心が安らいでゆく。

「君を不安にさせてしまうなんて、僕もたいがい鈍いのですね。すみません」

「ううん。私も一人で勝手に不安になって落ち
込んで、ちゃんと弁慶さんに聞かなかったのが悪いんです」

涙に濡れた瞳に弁慶を映し、花開く笑顔を向ける。

「私、まだ弁慶さんの事知らないこともたくさんあるし、迷うことあるかもしれない。でも二人でずっと一緒にいられるように頑張りますね。
弁慶さんのことが好きだから……」

眩いばかりの笑顔に、弁慶の顔がほころぶ。
それは以前の彼にはなかった、望美だけに見せる心からの笑みだった。

「幸せに満ち溢れた日々の暮らし……それを生きて感じることが出来る。そんな喜びを僕に与えてくれたのは望美さん、君です。ありがとう」

弁慶からの心からの喜びに、嬉しさと照れくさい気持ちが入り混じって、望美がはにかむ。

「私からもありがとう。弁慶さんと一緒にいると、とっても幸せだから。だから傍にいてくれて……生きていてくれてありがとう、弁慶さん」

言い終わると同時に強く抱き寄せられる。
弁慶の肩がかすかに震えているのを見て、望美はそっと背中に腕を回して抱きしめた。

今、ここに生きているあなたに。
彼に生を与えてくれたご両親に。
――ありがとう。
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