無垢

弁望27

「えっと……じゃあ、おやすみ、なさい」
「はい、おやすみなさい」

恥ずかしそうに頬を染めて俯く君に、微笑んで隣りの褥に身を横たえる。
清盛を滅し、応龍を復活させ長い贖罪に決着がついたあの日、僕は君にこの世界に留まるよう願った。
それは今まで自分の世界に戻るため、必死に頑張ってきた君にはあまりに酷な願いで、どこまでいっても自分は咎人なのだと嘲笑が浮かんだ。
だけど君は、驚きながらも頷いてくれた。
血塗られたこの手を、躊躇うことなく掴んでくれた。

そうして戦の後始末を終え、君の幼馴染である
譲くんが元の世界へ戻るのを見送り、全てが済んだ時、君を景時の邸から僕の庵へと連れてきた。
長く景時の邸にいた君に不便をかけぬよう、もっと大きな邸を建てることも出来たけれど、薬師として働くことを決めていた僕には何かと都合が良く、結局反対する朔殿を振り切る形で質素なこの場所で共に暮らし始めた。

君がいた世界と比べれば、火を起こすことさえ
一手間かかるこの世界での暮らしは不便で仕方なかっただろう。それでも君は文句ひとつ言わず、甲斐甲斐しく家事に奮闘してくれた。
君が僕の傍に居て微笑んでくれる。
そのことが何よりも幸福で、そんな幸福を感じている自分にひどく戸惑う。

守護神たる龍の命を絶ったあの日から、僕は再び京にその加護を取り戻すことを誓っていた。
それが容易ではないことは分かっていたし、自分の命が代償になって取り戻せるのならそれで構わないと思っていた。
そんな時に現れたのが、応龍の片割れ・白龍に
よって選ばれた神子である君だった。

僕を断罪するために降り立った天女は、けれども天の使いとは思えないほど柔らかく微笑む普通の少女だった。
平家の生み出す怨霊を封じられるその稀有なる力に、僕は君の『元の世界へ帰りたい』と言う思いを利用して、源氏に力を貸して欲しいと乞うた。
怨霊を封じることは、五行の力を清浄にし、しいては龍が力を取り戻すことにも通じる。
そして龍が力を取り戻すことが、元の世界に戻るための手段なのだと、暗に促した。

はたして――君は僕の思惑通り、源氏に力を貸すことを了承してくれた。
そうして共に行動しながら、自分の目的を達するため何度も君を傷つけ、さらには源氏を裏切り、君を人質として共に連れ去った。
これで君は僕を完全に嫌うだろう。
それは当然覚悟していたことなのに、どこかで
嫌われたくないと思う自分に嘲笑が漏れた。

『後戻りできなくなりますよ?』

僕を追う君を遠ざけながら、それでも君に惹かれる気持ちを止められなかった。
そうして厳島に向かう船の中で、君に告げられた言葉に僕は息を呑んだ。
未来を――僕が清盛と同化し、消えていくのを
見てきたと涙ながらに語った君。
到底信じられぬ内容だったが、それでも彼女の
深い悲しみをたたえた瞳が、それが真実であることを物語っていた。
そして手渡された八咫の鏡が、彼女の告げたことは真実であると確信させた。

「う……ん……」

小さく漏れた呻きに、物思いに耽っていた頭が
現実へ引き戻される。
夫婦となってひとつ庵で寝食を共にするようになった今でも、君は隣りに眠ることを恥ずかしがって、いつも僕に背を向け眠っていた。
共に戦っていた頃から、僕がかける言葉の反応の一つ一つに、君がとても純粋であることは分かっていたが、『寝食を共にするだけの仲』である
自分達につい苦笑が漏れる。
今はもう『神子と八葉』ではなく『夫婦』のはずなのに、身も夫婦となることを君が純潔であるがゆえに怖れるように、僕も躊躇っていた。

女を知らないわけではない。
それでも、君は今まで僕がかかわった女性とは
あまりにも違い清らかで、姿形だけでなくその心があまりにも美しいから、穢してはいけないと思ってしまう。
反面、君を求めて止まない自分も確かにいて。

「まるで初めて恋した少年のようですね」

苦笑交じりの呟きは、しかし真実だった。
幼少の頃より比叡に預けられ、荒んだ心は恋などという甘い感情を受け入れもせず。
源氏に組するようになってからは、色恋は手段でしかなく、溺れるものではなかった。
そんな自分が初めて惹かれた女――それが望美だった。

どうしようもなく彼女を欲する自分と、穢してはならないと警告する自分。
相反する想いに眉を寄せると、不意に背を向けていた君が寝返りをうった。
くるくると愛らしく表情を変える翡翠の瞳は長い睫毛に覆い隠され、いつも微笑みを浮かべる薄桃色の唇は、穏やかな寝息を紡ぐ。
眠る姿さえ僕を魅了する君に、苦笑が漏れる。

「こんなにも無防備な姿を晒してくれるのは、
それだけ僕を信用してくれているからなのでしょうね」
並べられた褥に小さく息を吐くと、美しい紫苑の髪を一房手に取り、そっと口を寄せる。

「だけど、ここまで信用されてしまうのも切ないものですね」

――僕とて男、愛する女を目の前にして何も出来ないと言うのは、正直辛いものがあるんですが……。
すっかり夢の世界にいる愛しいひとは、無邪気な微笑みを浮かべていて。
身体に灯った熱を持て余しながら、隣の褥で瞳を閉じる。
明日も君が傍らに居る幸福を思い描いて――。
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