満月の雫は媚薬

弁望12

「あれ? 弁慶さん?」
闇に溶け込むように立つ弁慶を、望美が見止める。
先ほどまで平家の間者と会っていた弁慶は、思いがけず望美と出会ってしまったことに、動揺を隠しながら笑みを作った。

「望美さん。こんな夜更けにどうしたのですか? 女性の一人歩きは危険ですよ?」
「ちょっと目が覚めちゃったんです」

月に照らし出された望美の頬が、かすかに光る。 わずかに残る涙の跡から、夢見が悪かったのだろうと結論付けると、弁慶は空を見上げた。

「よろしければ少し星を見ていきませんか?」
弁慶の提案に嬉しそうに頷くと、二人で木の幹に腰かける。

「わぁ~綺麗! 星がいっぱいで押しつぶされそう!」

「でもあの数多の星々よりも、君の方がずっと美しいですね」

「もう、弁慶さんはすぐそんなことを言うんですから」

「本当にそう思っているんですよ」

照れくさそうに一瞬だけ視線を合わせた望美に、ふふっと微笑む。

「あの星はなんて言うんだろ?」
「あれは牽牛星ですね」
「それって織姫と彦星のですか?」
「えぇ、そうです。一年に一度だけ会うことを許される、恋人の星ですね」
「一年に一度だけしか会えないなんて、何だか可哀想ですね」

望美の言葉に、弁慶はそっと瞳を細める。

「たった一日でも、想いを交し合うことが出来るのは、とても幸せなことだと僕は思いますよ」

弁慶の言葉に、望美はちょっと驚いた風に彼を
見る。
弁慶の瞳は星よりもずっと遠くを見つめているようで、どこか孤独を感じさせた。

「ちょっと感傷的になりましたね。すみません」
「い、いいえ」

向けられた瞳はいつも通り優しく、けれども心の奥は見えなくて、望美はぎこちなく首を振る。
それから星たちの神話を語り合ってしばらく経った頃、不意に弁慶の肩にぬくもりがかかる。

「眠ってしまいましたか……」
無垢な寝顔に苦笑を漏らしながら、身体が冷えないようにと外套の中にそっと抱き寄せる。

ある春の日に、花の中に舞い降りた美しき紫苑の天女。
苦戦を強いられていた源氏に光明を与える存在として、弁慶は望美を歓迎した。
しかし共に行動しているうちに、いつしか特別な感情を持ち始めている自分に気が付いた。

「君をこのまま、この漆黒の衣で隠してしまいましょうか……?」
外套に包まれて眠る望美を見つめ、苦笑する。

「それでも君のまぶしさは隠しきれませんね」

今宵の月のように、満ちたる美しい月の名を持つ望美。
漆黒の衣で身を隠し、闇にまぎれる自分とは全く逆の存在だった。

咎人たる自分が、これ以上関わってはいけない――。
分かっているのに、寄りかかるこの重みを離したくないという衝動を抑えられない。
玲瓏たる覚悟と矛盾した想いに弁慶がため息をついた時、かすかに望美が身じろぐ。

「だめだよ……やめて……弁慶さんっ」

悲痛な声でとどまらせようと訴える望美が、その相手たる弁慶の名を口にした瞬間、瞳から涙が零れ落ちた。
眠ったままだというのに、悲しげに睫毛を震わせる様はあまりにも切なく、弁慶はそっと雫を拭う。

「君はどうして夢の中でそんなにも嘆き悲しんでいるのですか……? 夢の中の僕は、どうして君の涙を拭えないのでしょう……」

呟きは望美の涙に溶けて、弁慶の膝へと染み込んでいく。
望美からこぼれおちる雫は熱く、関わってはいけないと戒める胸の鎖を溶かして、弁慶の心をどうしようもないほど魅了する。

「君はいけない人ですね。眠っていてもなお、
僕をこんなにも惹きつける……その瞳から零れ落ちる雫はまるで媚薬ように染み込み、咎人たることも忘れ君の傍にいたいと願いたくなる……」

もしも龍脈を断ち切るという、大罪を犯す前に
出会えていたならば――。
よぎった思いに在りし日の幻が木々の向こうに
消えてゆく。
咎人はいつの日か報いを受けるだろう。
ましてや異世界からやってきた望美は、いつの日かこの世界から消え去ってしまうのだ。
始めから望美と共に過ごす夢など見ることはかなわないのだから――。

「……っ!」
悲鳴を飲み込み、目を覚ました望美は、一瞬夢と現の狭間に戸惑った様子を見せるが、傍らに弁慶の存在を見出すと意志の光を取り戻す。
その瞳は遥か未来を見通す占者のごとく、憂う嘆きと運命を覆さんと願う、強き意思を宿していた。

「大丈夫ですか?」
気遣うような弁慶の声に、望美は悪夢を胸に封じて笑みを浮かべる。

「すみません。私、寝ちゃったみたいですね。肩、重かったでしょ?」

「大丈夫ですよ。可愛らしい寝顔に、時を忘れて見惚れていましたから」

「もう!」

照れたように微笑む望美は、先ほどの涙を流していた彼女を微塵も感じさせなかった。

「そろそろ戻りましょうか?」
「そうですね。これ以上君を独り占めしていると、皆に怒られてしまいますからね」

寒さに震える望美の肩に、漆黒の外套をかけながら微笑む。
並んで歩く望美の頬には、新たな涙の跡。
満月からこぼれおちた雫は膝にふれて、媚薬のように甘く切ない胸の痛みを弁慶にもたらした。
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