そっと きゅっと

弁望107

「今日は鶏団子鍋にしようと思うんです」
「いいですね」

買い物袋を指差す望美に、弁慶が微笑む。
夕飯の仕度をしようとした時、調味料が切れていることに気づいた望美は、買い物に出ていた。
その時、いつもよりも早く仕事を終えた弁慶から電話が入り、駅で待ち合わせて共に帰ることになったのである。
ふと視線を感じて振り返ると、穏やかな棒色の瞳が自分を見つめていた。

「弁慶さん? どうかしました?」
「いえ、望美さんに見惚れていただけです」
「……っ!!」
さらりと紡がれた甘言に、望美の頬が朱に染まる。
弁慶と出会って9年あまりになるが、いまだに
彼のこうした言葉に望美は弱かった。

「……おだてても何もありませんよ」
「僕は思ったことをそのまま口にしただけですよ」

照れ隠しに唇を尖らせてみても、相手は百戦錬磨の元軍師。
砂糖にさらにメイプルシロップまでかけて食べさせられたような、甘すぎますという現状に、望美はこれ以上の反論を諦めた。

外は雨。
普段は賑やかな通りも、雨が音を吸収しているのか、とても静かだった。
黙して雨の音を聞いていた弁慶は、そっと隣りの望美を窺い見た。
出逢った頃と違い、二十歳を越えた今の望美は
少女の殻を脱ぎ捨て、美しい女性へと花開いていた。
日々美しくなっていく彼女に、悪い虫が寄りつくのを警戒しながらも、職を得るために一から学び直さなければならなかった弁慶は、ひたすらに
学問に励んだ。
一日でも早く、望美を迎えに行くために。

そうして医大を卒業し、働き始めて数ヵ月後、弁慶は望美の両親に彼女との結婚を申し込みに行った。
望美のいるこの世界に残り、彼女と付き合って
9年の月日がたっていたので、すでに公認済みだった両親が反対するようなこともなく、身内だけのささやかな挙式を挙げ、入籍を果たした二人は、晴れて夫婦となった。

弁慶が生まれ育った、遙かな時空の彼方のあの
世界にいた頃には、自分がこのような人生を送るようになるとは想像も出来なかった。
特に応龍を滅したあの日からは、弁慶の命はただ龍神の加護を京に再び戻す、そのためだけにあった。
そんな弁慶の前に現れた、応龍の半身・白龍に
選ばれた神子望美。
異世界から召還されたという彼女の存在は、弁慶の暗い贖罪の毎日に光明をもたらした。

言葉巧みに源氏へ引き入れ、平家の力を削ぐために彼女の類稀なる奇跡の力を利用した。
そう――望美は彼の願いである応龍の復活を手助けする、大切な駒だった。
なのに、望美は弁慶の思惑通りには動いてくれなかった。
その存在さえあれば、後は大切に奥で守られていれば良いというのに、自ら剣を持って第一線へと飛び出し。
そうして八葉を探し出して絆を結び、ついには
和議を結ばせ、長年の源氏と平家の争いに終止符を打ったのである。

「べ、弁慶さん?」
隣りを歩いていた望美の手をそっと握ると、頬を染め驚きを宿した翡翠の瞳が、弁慶を見上げた。

「手を繋ぎたくなりました」
彼の笑顔に彼女がめっぽう弱いのだと知っていて微笑むと、戸惑いつつも握り返す手が愛しくて、弁慶の口元は自然と笑みを型どる。

今、自分の隣りに望美がいる。
それは奇跡だった。
本来ならば、全く異なる時空にいた二人が出逢うことなどなかったのだから。

自分が生れ落ちた世界とは異なるこの世界で、
不意によぎる恐怖。
望美という存在が、ある日突然消え失せてしまったら?
人の命が簡単に消えてしまうことを、弁慶は嫌というほど知っていた。
どんなに望まざるとも、突然の病で亡くなることもある。
思いがけない出来事で命を奪われる事だってあるのだ。

弁慶がこの世界にいるのは、望美がいるから。
彼女のいないこの世界に、弁慶の居場所も存在理由もなかった。
だから、今日も澄んだ翡翠の瞳が自分を映し出していることに安堵する。

「少し寄り道をしていきましょうか?」
「え?」
「もう少し、こうして雨の中を君と歩きたいと思ったんです」

握った手に少しだけ力を込めると、柔らかい笑顔と共に握り返される手。

そこに愛する人がいる――ただそれだけで、ありふれた日常も色鮮やかなカラフルな世界へと変わるのだと。
望美という存在を得て、初めて知ったそのことが嬉しくて、そっと手を握る。
それに応えるように、君の手がきゅっと握り
返す。
流れ行く時間の中で望美と出逢えた奇跡、そしてその奇跡が今もなお続いていることの幸福を噛みしめながら、弁慶はそっと手を握り返した。
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