円撫4

【夢 -sideA-】
夢を、見る。
それは【私】の知らない、彼らの姿。
『私』が経験した『私』の記憶。

『私』はどこに行ってしまったのだろう?
この身体の中でずっと眠り続けているの?
消えてなくなってしまったのなら、この記憶はどうしてあるの?

ここにいる私は……本当に【私】なの?
私は……どっちの私、なの?

   * *

意識の水底から浮上するように、重い瞼を開く。
目に映った天井は慣れ親しんだ自分の部屋でも、9年間この身体が眠り続けていたカプセルの中でもない、粗末なもの。

「ここ、は……?」

混濁する記憶にただぼんやりと上を見つめていると、ふと頬に触れたぬくもりに顔をそちらに傾けた。

「ようやく起きましたか? ずいぶんとよく眠っていましたね。あなたって結構寝汚いんですね」

にやりと意地悪くつりあがった唇。
でも頬を撫でる指先は優しくて、撫子は一瞬の間の後、彼の名前を口にした。

「…円……」

英円。
10年後の未来だというこの世界の鷹斗――キングの思惑で集められた課題メンバー、撫子の大切な人の一人。
けれども彼は違う。
同じ【円】だけれども、撫子が知る【円】ではない。
10年後の、撫子と共に課題を受けた【円】ではない『円』だった。

「どうしたんです? まだ目が覚めないんですか?」
「……ううん」

緩く首を振るも感情がうまく整理できず目を伏せると、優しいキスが瞼に、額に降り落ちた。

「……怖い夢でも見たんですか?」
ベッドに腰掛け、宥めるように髪を梳く指先は撫子を気遣うもので、どう答えればいいのか惑った。

「夢……そう、ね。夢を見ていたわ」

何も音のない世界。
【私】と『私』と……私。
記憶がまざって、自分かわからなくなって。
私が認識できなくなる、そんな夢。

この世界に残ることを選んだ時に、撫子は過去の……12年間生きたあの世界と決別することを決めた。
そしてそれはこの世界の撫子を消して、新しい撫子として生きていくことを選んだということ。
では今の自分は誰なのだろう?
連れてこられた12歳の【私】は、けれどもこの世界の22歳の身体に引きずられるように意識を成長させ、小学生ではなくなってしまった。
過去の【撫子】でもなく、未来の『撫子』でもない。 まったく別の……新しい撫子。

「私はこの世界にいていいのかしら……」

普段ならば決して口にすることのない言葉。
けれどもまとわりついた夢の残滓は、撫子の胸の奥に巣食う不安を掬い上げた。

本来この世界に存在しているのは、13歳の時に事故に遭って以来眠り続けたままの22歳の撫子。
けれど今この身体に宿っているのは、この世界の過去(厳密に言えば近似値であって過去とは言い切れないのだが)に存在していた12歳の撫子。
過去の意識を未来の身体に宿して存在する異端……それが今の撫子だった。

「………は? あなた、何を言ってるんです?」
「ごめんなさい。少し混乱しているみたいなの……」

顔をしかめた円に謝りながら、撫子はそっと手を目の前にかざした。
12歳の記憶よりも、ずっと長い指先。
指だけではない、今の撫子は身長も伸び、22歳の大人の身体をしていた。
本来ならば段階を踏んで成長していく過程を飛ばしてしまった今を後悔しているわけではない。
それでも、ふとした瞬間思うのだ。
私は、ここにいていいのだろうか、と。

「いいも悪いもないでしょ。あなたはもう帰れないんですから」
「そう、ね……」

人口転生にはそれなりの設備が必要で、それらが備えられているCZからはずいぶん離れた場所にいる。
けれどもたとえ条件がかなっていたとしても、撫子が選ぶのはやはりこの世界の円の傍だから。 そんな撫子の想いに応えるように、円の指先が撫子の手を包み込んだ。

「元の世界が恋しくなりましたか?」

「え?」

「まあ、そうですよね。恋しくないわけありません。あなたは無理やりこの世界に連れてこられたんですから当然でしょ」

「円?」

「……帰しませんよ」

少しだけ下がったトーンに顔を上げた瞬間、唇をふさがれ。
柔らかく食むその感触に、胸に巣食った不安が消えていく。

「あなたが帰りたいといっても、ぼくはあなたを帰さないと決めました。これからもずっとあなたを放すつもりは毛頭ありません」

「円……」

「だから、あなたはここにいればいいんです。ぼくの平穏のために」

抱き寄せる腕が必要だと伝えてくれる。
過去も未来も関係なく、今の撫子が必要だと、そう伝えてくれるから。

「私はずっとあなたの傍にいるわ」

「当たり前です。というか、あなたが放れようとしてもぼくは放すつもりはありませんから」

傲慢とも思える言葉が、私をこの世界に繋ぎとめてくれる。
この世界に存在することを許してくれる。
だから。

「大好きよ、円」

誰よりも安心できる腕の中で想いを告げると、優しく唇を奪われた。



【夢 -sideB-】
夢を見る――。
少女の事故。
狂わせた少年。

それは、自分が引き起こした――罪。
大切なものを守りたくて、少年と少女を壊した。
それを忘れてはいけないのだと、夢は何度となく円を蝕む。

家族と引き離されたのは罰。
円が壊したものへの代償。
そう、強要する腕を拒めるはずもなく。
円は優しくて恐ろしい鳥籠に囚われた。
彼が狂わせたキングの鳥籠に――。

 * *

「……………っ!」

ハッと覚ました目に映ったのは粗末な天井。
詰めた呼吸を吐き出すと、じわりと冷や汗が全身ににじむ。
久しぶりに見た悪夢。
それは毒のように沁み込んで、円の鼓動を激しく乱す。
震える指先。
幾度となく見てきた己の罪。
気を狂わせるような感情の嵐にぐっと拳を握った瞬間、柔らかな声が耳に届いた。

「円? 目が覚めたの?」
「……………」

綺麗な黒髪を揺らし近づいてくる女性。
それはあの鳥籠の中で何度となく見ていた、円の罪の証。
けれどもその瞳には彼を恨む色など微塵もなく、ただ様子のおかしい円を気遣わしげに見つめていた。

「円がこんなところでうたた寝なんて珍しいわね」

疲れているの?
そう覗きこむ撫子の腕を掴んで、引き寄せて。
不意をつかれ転がり落ちてきた彼女を、腕の中に囲った。

「ちょ……っ!」

「暴れないでください。このソファは狭いんです。落ちますよ」

「急に腕を引っ張る円が悪いんでしょ? 狭いならどくわよ。手を放して」

「嫌です」

突然のことに顔を赤らめる撫子に、円はその腕を緩めることなく滑らかな黒髪にキスをする。

「夢見が悪かったんです。ですから慰めてください。恋人なら当然ですよね?」

一方的な円の我が儘。
けれども、こんなことは日常茶飯事のため、撫子は小さく息を吐くと身体の力を抜いてその身を胸に寄せた。

「……怖い夢だったの?」
「……………」
「大丈夫よ」

幼子を宥めるように頬を撫でる優しい指先。
その手に自分の手を重ねると、そっと唇を押し付けた。

「まど……っ」

慌てる彼女の言葉を遮るように口づけて、何度も重ねては放してを繰り返す。
触れることがおこがましいとか、そんなことは思わない。
好きで、愛おしくて、触れずにはいられないのだから。
そうして彼女が苦しいと小さく抵抗するまで、円は唇を重ね続けた。

「は……ぁ……っ」

「いい顔ですね。そそられます。もっとしてもいいですか?」

「馬鹿……っ!」

「ああ、その顔もいいですね。ぼくを煽ってるんですか?」

「そんなことあるわけないでしょ!」

キスに蕩けた顔から一転、きりりとつりあがった瞳に微笑むと、もう一度柔らかくその唇を食む。

目の前にいる撫子は、円が壊した彼女じゃない。
彼女の器に強制的に移された別の彼女。
円が引き起こした事故によって眠り続けるこの世界の撫子を目覚めさせるために、10年前の近似値にある世界から意識だけをこの世界に連れてきて、無理やりこの世界の彼女に置き換えた。

それでも、円にとっての撫子は目の前にいる彼女で。
何よりも大切な央を危険にさらしてまでも傍に置きたいと、傍にいて欲しいと、誰よりもその存在を求め、人口転生などという狂気を実行したキングの手から奪った。

「……本当に厄介です」

大切な少女を事故にあわせ、狂わせてしまったキングに償うならば彼女を差し出せばいい。
――けれどそれは出来るはずもない。
さらりと、揺れる黒髪を指先に絡めて。
髪に、目尻に、額に唇を寄せる。

「円……?」

「ぼくをこんなに振り回してるんです。大人しく腕の中に抱かれてて下さい」

「振り回してるのは円の方じゃない!」

「そうですか?じゃあお互いさまということで」

理不尽だとばかりに憤慨する撫子に微笑むと口づけて。
腕の中のぬくもりに、夢の残影を拭い落とす。

円の犯した罪は消えはしない。
例え目の前の彼女が許したとしても、決して消えはしないのだ。
それでも、罪悪感を抱いてはいけない。 それはこの壊れた世界を肯定することになるのだから。

この夢を見なくなることはきっとないだろう。
それでも、触れた肌から伝わるぬくもりが疲弊した心を癒していく。
撫子という、癒しの雨が。
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