「おかえり」をあなたに

景市2

「先生?」
私がそう呼びかけると、一瞬悲しそうな顔をして、けれどもすぐにそれを取り繕い「なに?市香ちゃん」と微笑んでくれる。

目覚めた時、「あなたは誰ですか?」と問いかけた時の凍りついた表情は今でも覚えている。
私が何も覚えていないと知った時の驚き、戸惑い……絶望。
そんな内なる衝撃を、けれども先生は幾度か躊躇い……飲み込むと、自分は担当医だと教えてくれた。
その瞬間、違う――と、どこかで声がした。
それは目覚めなきゃいけないと急かした声と同じ。
その声が誰のものか、何が違うのか……わからなくて、不安で。
きっと表情にもそんな気持ちが表れていたのだろう。
先生は安心させるように優しく頭を撫でてくれた。
その手のぬくもりに安堵して……何も思い出せないのにこの手は信じていいと、それは確信めいた想いだった。

それからはずっと、先生が傍にいてくれた。
身体が動かせなくて不安な時は大丈夫だと励ましてくれて、根気よくリハビリに付き合ってくれた。おかげで今は、自分で顔を洗うことも、シャワーを浴びることも、日常生活に差しさわりなく動けるようになった。

(今日は何を作ろうかな?)

時計を見ながらご飯のメニューを考えているとノックの音がして、「入っても大丈夫?」と問う声に、身支度を整えてから「はい」と返事をする。

「ただいま。言われたものを買ってきたよ。今日はパスタ?」

「おかえりなさい。はい、先生が好きって言ってたから」

「……そっか。ありがとう」

泣きそうな顔で笑う先生に、つきりと胸が痛む。
その表情に、前に初めてキッチンに立った時のことを思い出す。


リハビリも順調に進んでだいぶ動けるようになってきた頃、キッチンから聞こえた大きな音に驚き、慌てて駆けつけたことがあった。
フライパンを床に落としたらしい先生に、「大丈夫ですか?」と火を止めながら火傷や怪我がないか確認すると、大丈夫だよと苦笑されて、手に持ったボールの中身を覗いた。

「……卵? 今日は何を作ろうと思ったんですか?」

「……卵焼きだよ。市香ちゃん、卵焼き好きでしょ?」

「え……」

「早く火をつけすぎたみたいで、油入れたら盛大に跳ねちゃって。心配させてごめんね」

照れくさそうに笑う姿に、以前毎日出される食事が買ってきたものばかりなことを不思議に思い尋ねた時に、料理が苦手だと言っていたことを思い出した。

「先生……料理苦手なのに、今日はどうして作ろうと思ったんですか?」

「……好きなものを食べたら、元気出ると思って」

「え……?」

(私のため……?)

「君、最近元気なかったから。まあ、ずっとこんなところに閉じ込められてちゃ、気も滅入るよね」

確かに少し気は沈んでいた。
けれどもそれは、ここに閉じ込められていることにではなく、何もできない自分が情けなくてだった。

「君は部屋に戻って待ってて。すぐに作って持っていくから」

「……あの、もしよかったら私が作ってもいいですか?」

「え……? 市香ちゃんが……?」

「はい」

おずおずと提案すると、悩む先生。
今までずっと病室でリハビリ以外何もしていなかったから、料理をさせて大丈夫か迷っているのだろう。

「だいぶ体も動かせるようになりましたし、これもリハビリになりますよね? やってみたいんです。お願いします」

「……本当に大丈夫?」

「はい」

フライパンを拾い上げ、洗うと、丁寧に水分を拭きとってから熱して油を注ぐ。
そこに先生が持っていた溶いた卵を注ぐと、箸で白身をかき混ぜながら形を整え、くるくると巻いていく。

「…………」

市香の様子を目を丸くしながら見守っていた先生に、できましたと皿に盛り付け差し出すと、その表情が泣きそうに歪んだ。

「先生?」

「……上手にできたね。俺のとは大違いだ。食べていい?」
「は、はい……」

ぱくりと卵焼きを口に運んだ先生は大きく目を見開くと、また泣きそうな顔をして「君の卵焼きだ……」と呟いた。

「先生?」
「おいしいよ。すごくおいしい……」

本当に幸せそうに卵焼きを食べる先生に、きゅっと胸の奥が苦しくなる。
嬉しくて、切なくて……どうしていいかわからない。

「……市香ちゃん? どうしたの? どこか苦しい?」

「……なんでもありません。大丈夫です」

「嘘。どこか怪我でもした? 手、見せて」

「違うんです。……卵焼きを食べてる先生を見てたら、胸が苦しくなって……。先生に料理を作れて嬉しいんです……」


今まで面倒をかけるばかりで何も返す事が出来なくて歯がゆい想いを抱いていた。
自分が料理を作れたら、少しは先生の負担を減らせるんじゃないか?
浮かんだ考えに、しかし違うと首を振る。
そうじゃない。彼に作ってあげたいと、そう強く思うから。

「これからも料理がしたいです。……先生、お願いします」
ぺこりと頭を下げると、戸惑う気配がして。一瞬の間の後、大きな手が頭を撫でる。

「……ありがとう。嬉しいよ」

「先生……」

「君は本当に料理が上手だから。だからまた君の手料理が食べられるなんて……幸せで」

「何か食べたいものがあったら言ってください。作りますから」

「……うん。でも、大丈夫? 君、記憶ないんだよね?」

「あ……」

嬉しくてつい申し出たけれど、市香の記憶は戻っていない。そのことを指摘されて慌てると、先生は笑いながら優しく頭を撫でてくれる。

「記憶は失っていても、日常繰り返していた動作は無意識下でも可能なのか?
記憶を喪失した職人が、失う前と変わらない動きができた事例は過去にもある。彼女にも同じことが言える?
もしかしたら記憶回復の手立てになるかもしれない……」

市香に話しかけながら次第に己の考えに没頭し、早口で独り言を呟くのは先生の癖で、市香はくすりと微笑む。

「市香ちゃん?」

「あ……ごめんなさい。先生、何か好きな食べ物はありますか?」

「好きな食べ物……オムライス。目や口やひげを描いた」

「目や口……ですか?」

「……あ、いや、なんでもない。君が作りたいように作ってくれればいいよ」

「いえ……わかりました。今度、オムライスを作った時は、先生の分は猫の顔を描きますね」

「どうして猫だと思ったの?」

「え?」

「目や口なら他の動物を思い浮かべてもおかしくない。ひげも口にしたから?」

「は、はい。ひげを描くなら猫かなと思ったんですが、違いましたか?」

「……ううん。猫がいい。それと俺の分は……って言ったけど、君の分は? 違うの?」

「私は別に……」

「一緒じゃないの?」

「…………。わかりました。同じように作ります」

「うん。ありがとう。楽しみだな」

花が開くように笑う様は無邪気で可愛らしく、いつもは頼る一方の先生が向けてくれる子どものような一面が嬉しくて、市香の顔にも笑顔が浮かぶ。

「……うん。やっぱり君は笑ってるのが一番だ」
「先生?」
「俺は、君が笑ってる顔が好きだよ」
「!」

泣きそうに、けれども心底幸せだと、微笑む先生の笑顔に胸が苦しくなる。
早く――早く。そう急かす声が、市香を動かす。

「市香ちゃん?」
「私も……先生が嬉しそうにしてくれると嬉しいです」

先生はいつでも笑顔だったけれど、どこか寂しそうで。
心から幸せを感じて笑ってほしいと、そう願っていた。だから。

「先生が嬉しいって思ってくれるように、いっぱいおいしいものを作ります。リクエストも聞きますよ」

少しでも自分にできることがあるならやりたい。それで先生に笑ってほしい。
そんな強い願いを抱いて見上げれば、目を見開いた先生はくしゃりと笑ってありがとうと微笑んでくれた。


先生とキッチンへ向かうと、お湯を沸かしてパスタを茹でているうちに、手際よく野菜を切っていく。
こうした作業が苦にならないのは、きっと記憶をなくす以前も料理が好きだったからだろう。
それに今は、先生が嬉しそうに食べてくれるから。
だから、市香は料理するのが好きだった。

「すっかり餌付けされちゃったな」
「ふふ、それじゃ先生が猫みたいですよ」
「そうだよ。俺は君の猫だから」
「え?」
「冗談だよ。ほら、よそ見してると危ないよ?」

「あ、はい」

時々先生はからかって遊ぶことがあり、私はそれに焦ったりむくれたりするけれど、それも幸せで、こんな時間が大好きだった。
――けれどもこの幸せにはタイムリミットがある。
それは、以前先生が電話で話しているのを聞いた時にわかっていた。

離れたくない。
ずっと先生と一緒にいたい。
この感情が何なのかわからない。それでも。

「市香ちゃん?」
終わりはまだこないでほしいと、そっと心の奥で願った。



風が静かに髪をさらう。 ここに来た時は夕日が見えていたのに、気づけば辺りは暗くなり始めていた。
不意に肩が震えると、少し顔を起こした白石さんが覗き込んだ。

「……寒い? ごめん、すっかり身体を冷やしちゃったね」

「いえ……大丈夫です」

「頬が冷たくなってる。……こんなに時間がたってたんだ」

記憶を取り戻して、想いを確かめ合って。
あれからずっと、2人身を寄せ合っていた。
少しも離れたくなかった。
このぬくもりをずっと感じていたかった。

「……もう行かなきゃね」
「…………っ」

泣きそうな顔で告げる白石さんのコートを掴む手に力がこもる。
離したくない。この手を離したくない。
けれども彼は、罪を償うことを決めたから。
いつまでも彼を待っていると……彼の帰る場所になると決めたから。
ぐっと力を込めて指を離すと、白石さんを見上げて微笑む。
彼が好きだと言ってくれた笑顔で送り出したいから。

「待ってます。だから、必ず私のところに帰ってきてください」
「ありがとう……市香ちゃん」

ふわりと、白石さんが笑う。
記憶を失い、担当医と患者として過ごしていたあの時、何度となく見ていた悲しそうな笑みではなくて、私に――彼を知る星野市香に向けられた笑み。
あの頃は、悲しそうに笑う彼に、心から楽しいと、嬉しい、幸せだと感じてほしくて、料理を作っていた。少しでも喜んでほしかったから。

「白石さんの笑顔が、私も大好きです」
「市香ちゃん?」
「だから絶対、また私のところに戻ってきてください。笑顔を見せてください」

心からの笑顔を――こぼれそうになる涙を必死に堪えて微笑めば、ぐっと抱き寄せられて、そのぬくもりに一滴こぼれ落ちてしまう。

(ああ……笑顔で送りたいのに……っ)

白石さんが私が笑っているのが好きなら、笑顔で見送りたい。
そう思うのにうまくいかなくて、彼の胸に顔を押しつける。
どうか、気づかないで。私の笑顔を覚えていてほしいから。

「市香ちゃん……」
優しい声と共に頭を撫でられて、余計に涙が溢れてくる。

「君が好きだよ。だから……待ってて。絶対に君のところに帰ってくる」
「……はい」
白石さんがくれる約束に頷いて、絶対に待ってるからと心に誓う。

「私……まだ白石さんにプレゼントを渡せてませんから」

「……もう俺は君からもらったよ。君だけが贈れるものを」

「え?」
きょとんと彼を見上げれば、目尻に残っていた涙を拭って柔らかく微笑む。

「君の声が聞きたい。笑った顔が見たい。君が目覚めてくれるなら、他に何もいらない、って……君が毒で眠っていた3ヶ月間、ずっとそう願ってた。神様でも悪魔でも、君を助けてくれるらならどちらでもいいって」

「白石さん……」

「君は目覚めてくれた。もう一度君の声が聞けた。笑った顔も見れた。……俺を好きになってくれた。もう十分すぎるほどもらったんだ」

「……白石さんは欲がなさすぎます」

「そうかな?」

「そうです。私は白石さんと一緒にしたいこと、いっぱいあります。猫たちも見に行きたいし、
クリスマスプレゼントも絶対喜んでもらえるものを見つけますから。だから、満足しないでもっと私を求めてください」

「……君って時々すごく大胆なこと言うよね。
ねえ、わかってる? それって誘ってるって思われても文句言えないよ?」

「……えっ? あっ、その……っ」

「……ははっ、冗談だよ。…………ありがとう」

指摘に真っ赤な顔でしどろもどろになった私に、白石さんは笑うとぎゅっと抱き寄せ小さく呟いた。
彼に応えるようにコートを握る手に力を籠めると、腕の力が緩む。

「……じゃあ、行くね」
「……はい。待ってます」

震える声で、けれども今度こそ笑顔を浮かべると、白石さんがドアの方へ歩いていく。
離れたくない。傍にいたい。
叫びそうになる想いを必死に堪えて。
その姿が見えなくなった瞬間、へたりとしゃがみこむ。
ほろり、ほろりとこぼれる涙。
もう会えないわけじゃない。
永遠の別れじゃないのだから。だから、泣く必要はないんだと、何度自分に言い聞かせても涙は止まらなくて、市香は静かに泣き続けた。

――ふわり。
覆うように被せられた上着から薫るのはタバコのにおい。

「……白石は出頭した」
「…………はい」

いたわりに満ちた低い声に頷くと、ぽんと優しく頭を撫でて柳が去っていく。
入れ違いに誰かが近寄ってくると、不意に背中にぬくもりを感じた。

「……?」
「……身体、冷えるだろ」
ぶっきらぼうな、けれども市香を心配する想いが込められた言葉に、それが弟の香月だとわかる。

「香月が冷えちゃうよ」
「……冷えねえ」
「……ありがとう」

白石さんに連れられてこの事務所にきた時、記憶のない自分に「無事ならそれだけでいい」と、香月は泣きそうな顔で微笑んでくれた。
一年間、白石さんと過ごしていた間、香月には沢山心配をかけただろう。
なのにそれを責めることもなく、無事であることを喜んでくれた。
その想いが嬉しくて、再び涙が溢れてくる。

「お、おい……なんで泣くんだよっ」
「香月が……みんなが優しいから、嬉しいの……」
「…………」

ポケットに手を突っ込んで、ぶっきらぼうに差し出されたハンカチを受け取ると、背中越しのぬくもりに身を委ねる。

(こんなに大切に思ってくれる人たちがいる。私も、白石さんも……)

物心つく頃から、アドニスの中で育てられ、番号で呼ばれ、個人であることを必要とされず、自分はただの駒にすぎないと、そう言っていた白石。
でも今は違う。
彼を白石景之と認識して、必要としている人がいる。
待っている人がいる。

(待ってますから……だから、絶対私のところへ帰ってきてください)

すれ違って悲しい思いも、苦しい思いもした。
それでも想い続けて、想いは重なり合ったのだから。
揺るぎない想いを胸に抱くと、市香はそっと上着を抱えて立ち上がる。
見上げる香月に微笑んで、帰ろうと手を差し伸べる。

帰ろう。そして、彼が帰る日を待とう。
ずっと、何年かかっても――ずっと。

20170519
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