カツン、カツン。
軽いヒールの音を響かせて、ドンナが向かうのは館の奥に配置された一室。
一応ノックをしてから開けると、足音ですでに来訪者が何者かを悟っていたのだろうに、部屋の主は顔を向けることもなくぞんざいに声を投げかけた。
「おやおや……いったいどうしたのかな? ドンナは返事も待てぬほどお急ぎらしい」
「アカデミアの授業、アッシュばかりに任せているのは?」
「ああいった事柄はアッシュの方が向く。適材適所という言葉があるだろう?」
「そうじゃなくて、私はジョーリィにお願いしたでしょ?」
レガーロを学問都市に――そう考え、打ち出したのがアカデミアの開校。
学校を新たに建てることよりまずは始めてみることを優先し、館の一部を開放してファミリーの皆に協力してもらって各々適した授業を行ってもらっていた。
フェリチータがジョーリィに依頼したのは錬金術の授業。
確かに同じ錬金術師であるルカやアッシュでも頼めることだったが、ルカには講師よりも内部を支える力に、アッシュは別のことをと考えていた。
何よりジョーリィが錬金術以外で何かを人に教えられるとも思えなくて割り振ったともいえた。
だが当の本人はといえば、そんなフェリチータの思惑を見事に蹴ってアッシュを代役に仕立てたのだった。
「アッシュではなく私が教える方が有意義だとドンナが考える理由はなんだ?」
「それは……ジョーリィが一番錬金術を長く研究してきたから」
「とってつけたような理由だな」
あっさりと言い訳を看破する冷ややかな声に、フェリチータははぁとため息をついた。
「……講師をする気はないってことね」
「いや、ドンナがお望みならやってもかまわない」
「本当?」
「ああ。ただし条件がある」
「条件?」
物事はすべからず等価交換で成り立つもの――錬金術師に何かを乞うる場合は等価交換が必須。
「私に講師をやれというならば、まずは君が手本を見せるべきではないか? ドンナ?」
「私?」
思いがけない要求に、瞳を瞬くフェリチータ。
彼女は全体を見渡そうと、教える立場ではなく生徒として学ぶ立場にいた。
「私が講師をすればいいの?」
「ああ。だがいきなり大勢の前で教えろなどと横暴なことはいいはしない。……まずは私を相手に、というのはどうかな?」
「ジョーリィが生徒になるの?」
「私に教えるのは何か問題が?」
「そんなことないけど……」
まさか自分が教える立場に回るとは想定しておらず、何をすればいいかと思い悩む。
「君が長くその身に宿していたのは何かな? ドンナ」
「その身に……って、もしかして『恋人たち』のこと?」
「『恋人たち』の能力で君は人の心理というものを学んでいたのではなかったかな?」
確かにフェリチータが生まれた時から宿していたタロッコ『恋人たち』は、相手の心を見ることができるもの。
もう1つのタロッコ『運命の輪』を暴走させてから、人目を避けるように島のはずれの小さな家でルカとスミレの3人だけで暮らしていた彼女は、人と接しない故に精神面で未熟な面もあり、アルカナデュエロで勝ち抜く目的のために意識的にその能力を使っていたことがあった。
「人に教えられるほど人の心をみたわけじゃない」
『恋人たち』の力に頼らずに自分の力で相手を知りたい――そう決意してからは使わないようにしていた『恋人たち』。
だからジョーリィが言うようにその能力によって人の心理を学んだ、とは言い難かった。
「クックッ……お嬢様はまだ『恋人たち』を満足させる伴侶を得てはいないようだ」
「…………っ」
そう。何度となく『恋人たち』は力を貸してくれたけれど、本来タロッコが望む代償・恋心をフェリチータは払ったことがない。
ファミリーすべてを慈しむ気持ち――それを代わりに代償として差し出していた。
「人という生き物はいくら研究しても尽きることがない。心理というのは私も長年研究しているテーマでね。ぜひともドンナにご教授していただきたいのだが」
立ち上がった長身の男は、常にかけているサングラスを外すとゆっくりと歩み寄ってくる。
右目に宿っていたスティグマータは今はなく、対のアメジストがフェリチータを捕える。
「それを私が教えられたら、ジョーリィは講師を引き受けてくれるのね?」
「ああ。君が私の望みをかなえてくれるならば」
「……わかった」
教えられるほどの知識がないのならば得ればいい。そう前向きに考え、頷くフェリチータにジョーリィの口角が上がる。
「君の授業を楽しみにしているよ、ドンナ」