『今日、仕事が終わった後にウキョウの家に行ってもいい?』
そんなメールが届いたのは朝。
彼女からの誘いに上機嫌で読み進めていたウキョウは、しかしその後の一文にえ? ……と携帯を凝視した。
『話したいことがあるの』
「話したいことってなんだろう? ……は! も、もしかして別れ話!?」
二重人格となり、過去迷惑をかけたどころではなく、その命を脅かしていたウキョウ。
いつ愛想をつかされても仕方ない……そうは思っていても、彼女を愛し、死の運命を何度も繰り返してまで求めた彼がそれをすんなり受け入れられるはずもなく。
「ど、どうしよう? まさか本当に別れ話? い、いや、そんなわけないよね。
昨日だっていつも通りにおやすみなさいって微笑んでくれてたし! あ、でも、額に口づけたら恥ずかしいってそっぽむかれちゃったっけ」
人前で抱き寄せたりキスすることをひどく恥ずかしがる彼女が可愛くて、わかっていながらついついいつも別れ際にキスをしてしまっていた。
もしかしてそれが原因!? と、一人青くなって慌てふためき。
いてもたってもいられず、支度もそこそこに家を飛び出すと、すでに日課となっている冥土の羊へ向かった。
こっそり外から店内を覗き込むと、いつものように制服を着た彼女の姿。
「どうしよう……もしもそっぽ向かれたりしたら、俺、絶対立ち直れない。
というか、死んじゃうよ! ……って、あれ? なんかいつもと様子が違う?」
一度最悪のケースを想定した頭はどうしても悪い想像しか浮かばず、店内に足を踏み入れずにいると「あれ? ウキョウさん?」と明るい女性の声が耳に届いた。
「どうしたんですか? そんなところで。思いっきり挙動不審ですよ?」
「あ、サワ。君こそこんな時間にどうしたの? 寝坊……ってわけじゃないよね」
「違いますよ。今日から新しいイベントが始まるんで、その宣伝に駅前にチラシを配りに行ってたんです」
ほら、と指差された入口には、『臨時犬カフェ実施中』と書かれていた。
「臨時犬カフェって……あ、この前は猫カフェだったから?」
「はい。ものすごく人気があったので、次は犬でもやってみようってことになったみたいです」
「ワカさんはこういうの本当に好きだよね。これも経営戦略っていうのかな」
バラエティに富んだメニューのみならず、冥土の羊は絶えずお客を飽きさせない工夫がされていて、だからこそウキョウも毎日通っていても飽きることがなかった。
どうぞ、とサワに促されて店内に入ると、おかえりなさいませと出迎えてくれた彼女にへにゃりと頬が自然と緩む。
「こんにちは。今日は犬カフェなんだって?」
「はい。あ、話し忘れてました……ウキョウさん、犬は大丈夫ですか?」
「うん。動物にはなぜか嫌われちゃうんだけど、俺は好きだよ」
「今日いる子はみんな大人しくて穏やかな子なので大丈夫だと思いますよ」
「うん、ありがとう。あ、注文だよね。ええと……じゃあ今日の日替わりランチで」
いつもの8番テーブルに案内され、雑談を交えつつ注文を受ける彼女に普段と異なる様子は見られず、ウキョウはほっと胸を撫で下ろした。
(やっぱり俺の考えすぎだよね。よかった……)
彼女が幸せであればいい――そう思っていたのは何度も時空をめぐっていた時で、けれどもそれは共にある幸せが願えなかったからで、今はもう彼女が幸せであればその隣りにいるのが自分でなくともいいとは思うことはできなかった。
「でも、だったら話って何かな?」
最初の疑問に戻り、一人テーブルで考えこんでいると「おまたせしました」と店長が料理を運んできてくれた。
「本日の日替わりランチ・疑惑のパスタとサラダ・紅茶になります」
「あ、ワカさん。今日も美味しそうですね。ここのランチは毎日違ってて、俺としてはすごく嬉しいんですよね」
「ありがとうございます。……ウキョウさん、何か悩み事ですか?」
「え? その、悩みってほどではないんですけど、ちょっと気になるというか……」
「……彼女のことですか?」
「あー……バレバレですか?」
「ウキョウさんは顔に出ますからね」
穏やかに見つめる店長に、ウキョウはバツが悪そうに頬をかいた。
「彼女から話があるって昨日メールを貰ったんです。その話って何かな、って」
「ああ……そのことでしたか」
「え? もしかしてワカさん、彼女の話が何か、知ってるんですか?」
「ええ。この前、サワさんやミネさんと話されているのを偶然聞いてしまいまして……」
「あの! 別れ話……だったりしませんよね?」
真剣に見上げると、一瞬きょとんを目を瞠った店長がふっと表情を和らげた。
「彼女の話を私から告げることはできませんが
……ウキョウさんの考えているようなものではないと思いますよ」
「別れ話ではない……ってことですか?」
YESともNOとも言わない店長に、けれどもその瞳は優しげで、ウキョウはそれ以上の追求を諦めた。
そうして胸のもやもやが晴れないまま冥土の羊に居続け、バイトを終えた彼女と共にウキョウの家へと向かった。
「ウキョウ? どうかした?」
「え!? 別に、どうもしないよ?」
「そう? ならいいんだけど……」
小首を傾げる可愛らしい様子に頬が緩むが、緊張は完全には消えず。
お茶を淹れてくれる彼女を待つ間も落ち着かず、そわそわしていた。
「はい。お店でもらった紅茶にしたんだけど、他の方がよかったかな?」
「紅茶で大丈夫だよ。これ、新作のだよね?」
「うん。すごく香りがよくて好きだなって思ってたら、わけてもらえたの」
喉を通る紅茶に、緊張がわずかに和らぐ。
ふう、と一息つくと、彼女がおもむろに話を切り出してきた。
「それで……今日はウキョウにお話があってお邪魔したの」
「う、うん。何?」
「えっと……」
切り出したものの、言葉に詰まる彼女に再び不安が募ってくる。
(やっぱり別れ話!?)
最悪の予想がもたげてきた時、思いがけない言葉が耳に飛び込んできた。
「ウキョウと一緒にいたいの」
「……え?」
理解が追いつかずに見つめると、少し俯く彼女。
「デートの後、ウキョウは必ず家まで送ってくれるでしょ?」
「うん。だって夜道は危険だし、君はすっごく可愛いから一人でなんて歩かせられないよ」
「ありがとう。でもいつもウキョウの背中を見送るたびにすごく寂しかったの……」
「君……」
まさか彼女がそんなことを思っていたなんて考えもしなくて、気づけば思いっきり抱き寄せてしまっていた。
「ウキョウ?」
「ごめん。すごく、君を抱きしめたくなっちゃった。……君が寂しかったって聞いて、不謹慎だけど嬉しい……って、そう思った」
彼女と別れる時はいつも切なくて、そんな想いを隠して笑顔でまた明日と別れていた。
けれども、もう彼女と離れ離れになることはないのだと、そう分かっていてもいつでも別れは寂しくて、次に会える時間が待ち遠しくて仕方がなかった。
「だからね? ウキョウにお願いがあるの」
少しだけ身体を離して見つめると、わずかな逡巡の後に彼女は真剣な顔で『お願い』を口にした。
「ウキョウと一緒に暮らしたい」
「……え? え、え、ええええええっ!?」
「……だめ?」
「いや、全然だめじゃないです! 俺も一緒に暮らしたいです! でも、その……一緒にってつまり、け、結婚を……」
「そうじゃなくて。私もまだ学生だし、ウキョウもお仕事の都合があるでしょ? だから同棲したいな……って」
同棲――その言葉に瞬時に脳内に同棲生活が浮かんできて、大きく手を振り妄想を払うと、深呼吸して気を落ち着かせつつ彼女を見た。
「その、君のご両親は許可してくれたの?」
「ううん。この前、お付き合いしている人がいるとは伝えたんだけど……」
両親にとってはウキョウは寝耳に水の存在だろう。
そんなどこの馬の骨とも分からない男といきなり同棲したいなどと、当然言えるはずもない。
「君のお休みはいつ?」
「え?」
「やっぱりご両親に何の挨拶もしないで同棲ってわけにはいかないと思うんだ。だから一度ちゃんとご挨拶に行きたいなって思うんだけど」
「……会ってくれるの?」
「もちろんだよ! 君のご両親にはちゃんと認めてもらいたいし、俺だって君と一緒に住めたらどんなに幸せだろうって思うし!」
朝起きたら傍に彼女がいて、おはようを言って一緒にご飯を食べる。
そんな毎日が過ごせたらどんなに幸せだろう。
「あ、この髪はまずいかな? やっぱり男が長髪なんて女々しいって思われちゃうよね。床屋に行って……あーいっそ自分でバリカンで剃ろうか?」
「だめ!」
強い拒絶の声にきょとんと見返すと、彼女がそっとウキョウの髪を手にとった。
「髪を切ったりしないで。ウキョウはウキョウのままでいいの。そのままのあなたが、私は好きだから」
「………………っ」
「ウキョウ?」
「その……今、ちょっと顔合わせられないっていうか……きっと俺、すごくでれた顔してると思うから」
彼女の言葉が嬉しくて、顔が自然と緩んでしまう。
幸せで……幸せすぎて涙まで浮かんできてしまった。
「俺……すごく幸せだよ。君がこうして俺の傍にいてくれることが……俺だけを見て、俺を好きだって、そう告げてくれることがすごく嬉しいんだ」
「私も幸せだよ。ウキョウが私を好きになってくれて、傍にいてくれるのがすごく幸せなの」
好きだと囁いて好きだと返ってくる。
そのことがこんなにも幸せで、嬉しい。
「……あ! でも、俺、すごくだらしないけど大丈夫かな? 服は脱ぎっぱなしにするし、牛乳は賞味期限過ぎても平気で飲んじゃうし、他にも……」
「それはもう一人のウキョウがきっとちゃんとしてくれるから大丈夫だよ」
もう一人のウキョウ……それは時空をめぐる中でウキョウの狂気から生まれたもう一人の人格。
主にウキョウが疲れている時に表に出てくるが、綺麗好きで口うるさく、ウキョウのだらしなさに耐えられなくなると夜出てきては掃除をしたり洗濯をしたりしていた。
「君は大丈夫? 俺みたいなやつと同棲だなんて……」
「ウキョウももう一人のウキョウも、私にとって大切な人だよ」
もう一人の人格を否定することなく、ウキョウとして受け入れてくれる彼女。
そんな奇跡のような優しさが嬉しくて、ぎゅっと彼女を抱きしめる。
「ありがとう」
愛してる――その想いが胸からあふれ出て止まらない。
彼女みたいな女性には、きっとどこを探しても出会えないだろうし、彼女以外を探す気もない。
彼女だけがウキョウの特別。
たった一人の女性だから。
そっと目元を拭う指。
愛してるという想いと共に溢れ出た涙を、優しい指先が拭ってくれる。
涙に濡れた瞳で微笑めば、彼女も微笑み返してくれて。
その幸せに、また涙が溢れ出た。
【後日】
「持っていく菓子折、これで大丈夫かな? 俺はおまんじゅうがいいって言ったのに、あいつがそんなじじむさいもの持ってくなってうるさくて」
「それで大丈夫だよ。そんな気を使わなくてもいいのに」
「そんなわけにはいきません! 今日は君をお嫁さんにできるかどうか決まっちゃう日なんだから!」
「あの、ウキョウ? 今日はそういうことじゃなくて、お付き合いの挨拶だけでしょ?」
「そうだけど! 今日の印象が悪かったら、結婚は認めませんとか言われちゃうかもしれないし!」
「ウキョウ、落ち着いて。大丈夫だから」
てんぱってるウキョウに苦笑すると、そっと腕を絡めて。
驚く彼に微笑んで、よく晴れた青空を見上げた。