安らぎ

文花1

『……傍に行っても良いか?』

突然、そんな不躾な願いを口にした文若に、逆に謝ってきた女性。
記憶喪失で彼女のことを忘れてしまっているのは自分だと言うのに、不甲斐なさで不安にさせてしまったのだと申し訳なさそうに頭を下げた。

彼女が自分にとってどんな存在であったのか、今の文若にはわからない。
けれども、たとえ記憶を失い不安だったとはいえ、おいそれと他人に頼る程危機意識が欠落しているわけではない。
それでも彼女に縋ったのは、きっと心の奥底で彼女は大丈夫なのだとわかっていたのだろう。

抱き寄せた小さな体に覚えたのは戸惑いと――安堵。
そんな文若を包みこむように背に回された腕は、先程彼女が告げてくれたとおりに傍にいると伝えてくれていた。

夫婦でもなく、従者でもない。
それでも自分にとって文若は特別な人だと、彼女は言った。
曖昧で要領を得ない説明に、それでも不思議と苛立ちは沸き上がらなかった。
惑いに揺れる瞳に宿っていたのは真実の色。
だから、分け与えられたぬくもりに安堵できた。

どれぐらいそうしていたのだろう、闇の中で急に彼女の身体から力が抜けたのを感じて見下ろせば、閉じた瞼に聞こえてくる寝息。

「眠ったのか……」

夜もだいぶ更けていたので、彼女が眠気を覚えるのは当然だろう。
だが、男の腕の中で眠ってしまうというのは危機感がなさすぎると眉間にしわを寄せると、膝の後ろに腕を回して抱き上げて、彼女が横になろうとしていた場所を見てため息をつく。

「この家は寝具が一組しかないのか?」

別の部屋で寝ると言っていたので、てっきりもう一組用意があるのだろうと思っていたが、彼女は唯一の寝具を自分に譲って、薄布だけで眠るつもりだったのだと知り、先程の部屋へと引き返す。

夫婦ではない女性と寝室を共にすることの問題がよぎるが、今の自分にこのぬくもりを手放すことは出来ず、苦情は明日の朝受け入れようと寝具に寝かせると、その隣に横たわった。

寝息を感じる距離に、それでも不安が拭えずに手を伸ばすと、ごろりと寝返りをうった彼女がすり寄ってくる。
腕に感じた柔らかな感触に焦るも目覚める気配はなく、詰めていた息を吐き出すと、胸に寄せられた手を包み込んだ。

闇の中で確かに感じるぬくもりがこんなにも彼を安心させる。
不安な時は人肌が恋しくなるものなのかもしれないと、先程の自身のふるまいを思い出し眉間を寄せるも、事実振り払えないのだから仕方ない。

明日は思い出せるだろうか?
このままでは日常に障りがあるし、なにより彼女がどういう存在であるのか知りたいと強く思うから。

(とりあえず明日の朝餉は付き添う必要があるな)

夕餉に出された食事を見るに、彼女は料理が苦手らしい。
一度ならず二度までも生焼けの魚や野菜を口にするのは避けるべきだと手立てを考えていると、ゆるりと眠気が思考を遮る。
それに逆らうことなく伝わるぬくもりに瞼を閉じると、闇の中に二人分の寝息が静かに溶けていった。

2018/01/21
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