特別な日

桃芽26

ガラガラガラ。夜道に俥が駆ける音が響き渡る。
神楽坂は場所柄、この時間でも俥が捕まりやすく、芽衣はお座敷が終わるや急ぎ俥に飛び乗っていた。

(ああっ、やっぱりちゃんと約束しておくんだった……!)

忙しい桃介さんを驚かせたいと、当日のサプライズを狙ったのがそもそも間違いだった。
こまめに通ってくれるとはいえ、水力発電の為に頻繁に木曽へ出掛けることの多い桃介さんが今日必ず来てくれるなど、約束がなければ叶うはずもなかったのだ。

(桃介さん、戻ってるといいんだけど……)

無駄足になるかもしれなくても慶應義塾に行かずにはいられず、芽衣はきゅっと胸元で拳を握った。
俥には待っててもらい、中へ足を進めると明かりが見えて、ホッと胸を撫で下ろすと急ぎ引き返して俥を帰すと研究室へと歩いていく。
控えめにノックするとはい、どうぞと返され、おずおずと扉を開いた。

「芽衣さん? どうしたんです、こんな遅くに。何かあったんですか?」

芽衣の姿を見るや、腰を上げてすぐに側に来てくれた桃介さんに時間を聞く。

「あの! 今、何時ですか?」
「時間ですか? ――ああ、ちょうど日が変わったところですね」
「!!」

桃介の言葉に間に合わなかったんだと肩を落とした。
俥を待たせなければ――いや、そもそもちゃんと約束していればと後悔が押し寄せ俯くと、そっと背中に手が回され。

「一先ず座りませんか? お座敷後に急ぎ来てくれたのでしょう? 今、紅茶を淹れます」
「……はい」

素直にソファへ座ると、紅茶を淹れに行った桃介の背を見送って、ふとあるはずのものがないことに気がつき顔が青ざめる。

「プレゼント……忘れてきた……」

お座敷で失くさないようにと部屋に置いていたことを思い出して、ますます気持ちが沈んでしまう。
誕生日当日にお祝いすることも、プレゼントも渡せないなんて、何のために来たのかわからなかった。
かちゃり、と目の前に置かれたティーカップの音に顔を上げると、優しい眼差しと目が合って。
きゅっと唇を噛むとごめんなさいと頭を下げた。

「ごめんなさい! 本当はプレゼントを渡しに来たんです」
「プレゼント、ですか?」
「はい。でも部屋に置き忘れてしまって……」

落ち込む私に桃介さんはふむ、と顎に手をやるとこちらを見る。
「プレゼント……確か贈り物のことでしたね。なぜ私に贈り物を?」
「それは、その、今日は桃介さんの誕生日でしたよね?」

あ、過ぎてしまったから昨日か、と眉を下げて説明すると、誕生日……と桃介さんが繰り返す。

「言葉からして生まれた日のことだとわかりますが、なぜ誕生日に贈り物をするのでしょう?」
「え?」

不思議そうに尋ねられて目を瞬くと、こちらには誕生日を祝う習慣がないことに気がついた。

「ああ、そういえば以前アメリカに留学していた頃に聞いたことがあります。誕生日には宴を開き祝うのだと。つまり芽衣さんは私の誕生日を祝おうと駆けつけてくださったんですね」
「はい。でも間に合わなかったですね……」

無情にも流れていった時間に肩を落とすと手を取られて。
目線を合わせると、にこりと微笑まれた。

「ありがとうございます、芽衣さん。お座敷後でお疲れでしょう? 今日はお店に行けず、すみませんでした」
「いえ、桃介さんが忙しいってわかってますから。ただ私が祝いたかっただけで……」

だがよく考えれば店に来られなかったというのも仕事に追われていたからで、現に今も桃介さんの机の上には書類やらが積まれていた。

「お仕事中にお邪魔してすみませんでした。プレゼントはまた後日渡しますね」
「待ってください」

ではと、足早に立ち去ろうとするも、手を取られたままではそれも叶わない。

「まだ頂いていませんよ。今日は私の誕生日で、あなたは私を祝ってくれるのではなかったんですか?」

そう指摘されて、気が急いて肝心の言祝ぎさえしていなかったことに気がついて、慌てて彼を見つめた。

「桃介さん、お誕生日おめでとうございます」
「ありがとうございます。あなたに言祝いでもらって、今日が特別な日なのだと実感しました」

もう日は変わってしまったというのに、それでもこちらの意を汲んでくれる優しさに、プレゼントを渡せなかったことが悔しくて仕方ない。

(特別な日だって言ってくれたのに……あ)

用意していたプレゼントはないけれど、特別な日にすることは出来るのではないか。
すごく恥ずかしいけれども、今贈れるのは私自身しかないのだから。
それでも悩んでいると、芽衣さん?と覗きこまれて、間近にある綺麗な顔に迷いを断ち切る。

「……お誕生日おめでとうございます。大好きです」

目を合わせるのはやはり恥ずかしくて、身体を引いて視線をそらすと沈黙が流れる。
その間が恥ずかしくて繋がれたままの指をもぞもぞと動かすと繋ぎ直される。

「もう一度――」
「え?」
「もう一度お願い出来ますか? 今日が特別な日なのだというならどうか私の願いを聞き届けてください。あなたの口からもう一度、私への思いを聞きたいんです」

瞳に宿る強い熱情は、彼から思いを与えられる時のもので、とくりと鼓動が飛び跳ねるのを感じながらもう一度繰り返す。

「お誕生日おめでとうございます。――大好きです」

唇が震えそうになるのを堪えながら伝えると強く引き寄せられて、あの瞳がもたらす記憶と違わない熱さが重なった。

20200704
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