始まりの合図

沖千19

「ねえ、もう終わりにしない?」
この突然の言葉に、千鶴はぱちぱちと音が聞こえそうなほど瞳を瞬いた。
言われた意味が理解できなかった。

「総司先輩?」
「だから、それだよ」
「?」
それ、という抽象的な言葉に困り果てていると、はぁとため息をつかれて。
名前、と端的な答えが返ってきた。

「??」
「君って本当に鈍いよね」
「すみません。あの、どういう意味でしょうか?」
「ねえ、僕は君のなに?」
「総司先輩は……私の、彼、です」
「よくできました……と言いたいところだけどダメ」

まだ交際するようになって日が浅く、恋人と意識するだけでも恥ずかしくて仕方がないのだが、今はそんなことを気にしている場合ではない。

(ダメ? もしかして、付き合っていると思っていたのは、私だけ?)

思いがけない出来事に、辺りが真っ暗になる錯覚を覚えると、「君、全然違うこと考えてるでしょ?」と、苦笑交じりの声が聞こえてきた。

「もしかして付き合ってると思ってたのは自分だけ……なんて思わなかった?」
「そう、なんですか…?」
「君って、本当にバカだよね」

泣きそうな表情で沖田を見上げると、おいでと手を差し出されて。
でも、その手を取っていいのかわからなくて佇んでいると、焦れた声に促された。

「なに? 嫌なの?」
「そんなこと……っ」
「だったら、おいでよ」
再度誘う声に、おずおずと近寄るとぐいっと引き寄せられた。

「まったく……どうしてそんなこと思うのかな」
「……だって、総司先輩が……」
「それ」
「え?」
「だから、その『先輩』っていうの、いい加減終わりにしない?」
一瞬呆けた千鶴は、ようやく彼が何を言いたいのかを理解し、どっと体から力が抜け落ちた。

「なに? 腰抜けちゃった?」

「……っ、総司先輩のせいじゃないですか!」

「君が悪いんだよ。すぐに名前で呼ぶのは無理だっていうから待ってあげてたのに、いつまでたっても先輩のままだから」

「それ、は……」

確かに付き合うことが決まった日に名前で呼ぶように求められたが、いきなり呼び捨てなどできようもなく、沖田先輩から総司先輩と呼ぶことで妥協してもらっていた。
だからといって、やはりこれは悪趣味だろう。
千鶴が少しだけ唇を突き出すと、にっと唇が弧を描いて。
降り落ちた口づけに、顔が一瞬で真っ赤に染まる。

「あれ? 違った? 唇を突き出すから、キスしてほしいっておねだりかと思ったんだけど」
「違います……っ」
「そんな全力で否定されると傷つくなぁ」
「…………っ」

ごめんなさいと謝るのも何か違う気がして、困ったように見上げると抱きしめられ。
甘い声でねだられる。

「名前で呼んでよ。先輩じゃなく、恋人として」

「あの……呼び捨てはやっぱり抵抗があるので……総司さん、でもいいですか?」

「いいよ。――ねえ、もう一回呼んで」

「……総司さん?」

「うん」

本当は呼び方なんてそれほど気にしてるわけではなかった。
ただ、千鶴にとって自分は特別な存在なのだと、彼女に告げてもらいたかった。
けれどもこうして呼ばれると、思いのほか喜びが込み上げてきて、にやけそうになる顔をごまかすように口づけた。

「いい子にはご褒美をあげなくちゃね」

いつものように笑みを浮かべれば、照れたように俯く千鶴が愛しくて。
可愛すぎる君が悪いよね、と内心でつぶやきながら、甘く、唇を貪った。
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