原田に口づけられたあの日から、千鶴の胸は揺れ惑っていた。
口づけたのは落ち着かせるためで、他意はなかったのだと。
期待してはいけない……そう何度言い聞かせても、自然に目は原田の姿を追い、思考は彼に埋め尽くされる。
そんな日々が続き、千鶴は大きくため息をついた。
口づけた翌日も、その後も、原田の態度は何も変わらなかった。
あの口づけは優しい彼の気遣い……それだけなのだ。
その事実が胸に棘を突き刺して、再び深いため息を落とす。
「なにため息ついてんだよ」
「え? ――原田さん!」
声と同時にぽん、と頭を撫でた大きな掌に、千鶴は驚き振り返った。
「どうした? またなにか悩んでるのか?」
「い、いえ、何も……」
「千鶴」
否定しようとして、しかし優しく諭すように名を呼ばれ、俯く。
「俺の態度でお前には誤解させちまったが、もし愛想つかしてないんだったら言ってくれ。
――お前は俺が守ってやるって約束したからな」
「原田さん……」
どこまでも優しい原田を嬉しく思いながらも、やはり口をつぐんでしまう。
『原田さんはあの口づけのことをどう思っているんですか?』
聞きたいのに、答えが怖くて聞けない。
期待しちゃダメ。
何度となく言い聞かせてきた言葉を心の中で呪文のように繰り返して、きゅっと目を閉じる。
「俺には言えないのか?」
寂しげな声にはっと顔をあげると、原田の曇った表情に千鶴は慌てた。
「ち、違うんです。原田さんだから言えないとかではなくてただ……っ」
「ただ、なんだ?」
「………っ」
少しかさついた唇に吸い寄せられる視線に、千鶴は頬を赤く染めた。
「……すみません!」
身を翻し駆け去ろうとして、しかし伸びた太い腕に捕らわれた。
「離してください」
「いやだ」
「原田さんっ!」
「俺、なのか?」
「っ………!」
呟きに、びくんと肩が大きく震えた。
惑い顔をあげると、見つめる強い瞳に視線がそらせない。
「千鶴……」
唇が名を紡ぐ。
口づけた唇、が。
こくり、と喉が鳴った。
声が出せず、視線をそらすこともできずに、ただ千鶴は原田を見つめた。
と、不意に原田が動いたかと思うと唇が重なっていた。
(な、に? 私、どうしたの?)
自分に何が起きているのかわからず、千鶴は呆然と原田の長い睫毛を見つめていた。
「わりぃ……」
謝罪にはっと我に返ると、間近にある原田の顔に今更ながらに動揺する。
「あんまりお前がいろっぽい目で見るもんだから堪えられなかった」
「い、いえ……」
バツが悪そうに目元を染める原田に、千鶴は反射的に首を振った。
「くそっ……順序が違うよな」
「原田さん?」
「言っとくが好き心なんかじゃねえからな」
「?」
「あ~……だからよ」
しかめ面すると、ふっ切ったかのように千鶴に向き直った。
「好きだ」
「……え?」
「お前が好きだって言ったんだよ」
原田からの告白。
それは想像の中だけのはずだった。
「千鶴? 聞いてるか?」
「は、はい」
頷くも、現実に思考がついていかず。
相変わらず呆然と見上げている千鶴に、原田は苦笑を浮かべた。
「お前は俺のこと、どう思う? ……男として興味はねえか?」
「そ、そんなことありませんっ」
ぶんぶんと首を振ると、高鳴る鼓動にきゅっと強く手を握り締めた。
「信じられなくて……。だって私は……」
その先を口にするのが辛くつぐむと、原田の胸に抱き寄せられた。
「お前はお前だ。鬼とか人とか、そんなのは関係ねえ」
真剣に伝える瞳が嬉しくて、ほろりほろりと涙が溢れる。
そんな千鶴に、ただ原田は黙って優しく涙を拭ってくれる。
そのぬくもりに後押されて、そっと口を開く。
「私も……原田さんが好きです」
たとえ許される恋ではなくても。
それでも、原田を恋い慕うこの想いは真実だから。
そんな千鶴の唇が荒々しく塞がれる。
抱きしめる力強い腕が愛しくて、涙が止まらない。
そんな千鶴に、原田は泣き止むまでずっと抱きしめてくれていた。