泡沫の逢瀬

桜ゆき1

「どうした? ゆき?」
「うん……なんだか見られてる気がして」
ゆきの言葉に顔を険しくした都が辺りを見渡すと、道行く者たちが確かにこちらを見ていた。

「この世界の人達と服が違うから、やっぱり目立つのかな…」

ゆきが身にまとっているのは、元の世界の制服に丈の短い着物。
ブーツを履いているとはいえ、丈の短いスカートは異国の女性でもまだ着るものはなく、珍しいものだった。

「ゆきに似あってるんだから気にするなって。文句言うやつは殴り倒してやる」

「……うん。ありがとう、都。でも、殴ったりしちゃダメだからね?」

安心させるように微笑む従姉に頷くと、瞬と三人で京の町を歩く。
そんな彼女を見守るようについていく存在。

「ああ……憂い顔もなんて可愛いのだろう……」

自分の行為故にゆきがそのような顔をしているのだと気づかずに、うっとりと恍惚の表情で呟く男は『夢の屋』という名の知れた情報屋。
めったに人前に現れることはないが、その華やかな容姿故にすぐに女性を惹き寄せる男は、しかしまとわりつく視線にはいっさい目もくれずに件の少女を見続けていた。

龍神の誘いで彼女がこの世界に降り立った時、この世の何にも心動かすことのなかった桜智の胸に甘美な衝撃が駆け抜けた。
筆舌に尽くせぬ清らかな…神々しい天女。

その日から桜智の世界は変わった。
少女がそこにいる――それだけで辺りは色鮮やかに輝いた。
ただの道端の花も彼女が目を留めた……それだけで他にはないただ一輪の花となりえた。

「龍神の神子とはかくも麗しき存在なのだろうか……いや……きっと彼女だからなのだろう……」

龍神の神子の存在は知っていた。
その昔、京の覇権を奪おうとした鬼の一族を諌めるために、神子は異世界から招かれた……目の前の少女のように。
だが今はもう、鬼の一族が神子に仇なすことはない。
直系の血を継ぐ現頭領である桜智も、そのようなつもりは全くなかった。
ただあるのは、目の前の少女に募る思慕のみ。
花のように可憐に笑い、鈴のように愛らしい澄んだ声で囁く。
彼女の一挙一動が桜智の感情を揺さぶり、甘く芳しい彩を与えていた。

「ゆきちゃん……?」

しばし己の世界に旅立っていた桜智は、一人京の町を歩く少女の姿を見る。
どうやら共にいたものとはぐれてしまったらしい。
その顔に浮かぶ憂いの表情に再び恍惚の世界に旅立っていた桜智は、彼女に近寄る不穏な気配に気がついた。

「ゆきちゃん……! 危ない……っ!」
「え?」

凝り集まった陰気が生み出す禍々しいもの。
桜智の声に振り返ったゆきに、突如現れた怨霊が襲いかかる。
瞬間移動で彼女の前に降り立ち、一振りで怨霊を引き裂くと、背に庇うゆきを振り返った。

「……大丈夫だったかい? ………っ!」

「ありがとうございます」

「……ゆきちゃん……っ! ……目が……!」

「少し瘴気を受けただけだから、大丈夫です」

「ああ……私が片時も君から目を離していなければ……こんな苦しみを君に与えずにすんだのに……」

記憶がみずみずしいうちに彼女の魅力を書き記そうとして、他を見落とした。
その結果、彼女を害してしまったことに気落ちしていると、ゆきは柔らかく微笑み桜智に手を差し伸べた。

「あなたが怨霊を祓ってくれたんですよね。ありがとうございます」

「私がもっと早く気づいていれば……君がこのような穢れを受けることはなかったのに……ごめん、ごめんね……」

「ううん。これは私の不注意だから。だからあなたは何も悪くないです」

「ああ……かくも深い慈愛の心……なんて君は優しい子なんだろう……」

怨霊の瘴気を受け自身も苦しいというのに、桜智を気遣うゆきの優しさ。
その気高さに、後悔といい得ぬ喜びが胸を支配する。

「でもどうしよう……。きっとみんな心配してる……」

「大丈夫だよ……。私が皆の所へ送ってあげるから……」

「え? 私のこと、知っているんですか?」

「ああ……。その……触れてもいいだろうか?」

「え?」
怨霊の瘴気を目に受けたゆき。
一刻も早く彼女を癒す必要があった。

「君は今、目が見えないから……歩くのは不便だと……」

「でも、ご迷惑が……」

「私のことなら気にしないで……今は一刻も早く君の目を癒すことの方が大事だから……」

「……はい。ありがとうございます、お願いします」

申し訳なさそうに顔を曇らせる優しい少女を、傷つけないよう慎重に抱き上げ空間を飛ぶ。
鬼の一族は様々な力を有するが、桜智に治癒の能力はない。
薬で癒すことは可能だったが、それでは時間がかかってしまう。
彼女を苦しみから一刻も早く解き放つならば、彼女を庇護する宰相の元へ連れていく方が良いと、そう瞬時に判断して鬼の能力で二条城を目指す。

「……大丈夫かい? どこか苦しいところは……」
「大丈夫です」
恐る恐る問えば返ってくるのは花の様な微笑み。
そのことに胸を高鳴らせながら、二条城の門へと近づく。

「待て! ここは……あ、あなたは!」
「急いでいる……通るよ……」
「は、はい。どうぞ!」
門番にそっけなく答えると、慣れた足取りで彼女の部屋へと歩いていく。

「ゆきちゃん……下ろすよ……なるべくそっと下ろすけど……足元には気をつけて……」

「ありがとうございます。ここは……畳?」

「ああ。二条城の……君の部屋だよ……」
その身を支えそっと座らせると、近づく足音に立ち上がる。

「すぐに君の仲間が来るから……」
「連れてきて下さってありがとうございました」
「……一日も早く、君の身を苛む毒が癒えるように……ごめんね、ゆきちゃん」

ゆきの閉ざされたままの目に、苦しげに顔を歪めると後ろ髪を引かれつつ部屋を出る。
初めて感じた他者のぬくもり。
ゆきから与えられたその温かさが永久に残ることなどないと、そう知っていてもなお逃し難く、我が身を抱くように腕を絡めると不意に鼻腔を甘やかな香りがくすぐった。

「こ、これは……ゆきちゃんの……!」

ぬくもりと共に残された天女の香り。
何よりも甘く、芳しい残香は彼女が確かにこの腕の中にいた証で。
全身を駆け抜ける幸福に、桜智は膝から崩れ落ちた。

この日身に着けていた桜智の衣は、その後一度も洗われることはなかった。
そしてこの後、二人は再びめぐり会うのだった。



「……あれ?」
皆と一緒に歩いていたゆきは、足を止めるとおもむろに桜智へと近寄った。

「ゆ……ゆきちゃん……?」
「……この香り……どこかで……」
記憶を探るように考え込むゆきに、都が慌てて間に入った。

「お前、私の天使に何を……!」
「都くん、どうやら彼女の方から桜智に近寄ったようだよ。ほら」

沸点の上がった都に、小松がふうと息を吐き出し指差す先には、傍に寄られて慌てふためく桜智の姿。

「ゆき、どうしたんだ? 桜智に何かあるのか?」
「う、ん……あ、そうだ。あの時の……」
ぱあっと顔を輝かせると、桜智を見上げ微笑む。

「前に瞬兄たちとはぐれてしまった時に二条城まで連れて行ってくれたのは……もしかして桜智さん?」

「ゆきちゃん……そんな昔のことを覚えていてくれたんだね……」

「やっぱり桜智さんだった」

「ゆき?」

「あ、この世界に来たばかりの頃に私が一人はぐれてしまった時があったでしょ?」

「ああ、必死に瞬と探してたら、二条城に戻ってたことだよな」

「うん。あの時、私を助けてくれたのが桜智さんだったの」

怨霊の瘴気を受け、一時的に視力を奪われていたゆきは、桜智に抱き上げられた時、その衣に焚き染められていた香を覚えていたのだ。

「あの時は本当にありがとう、桜智さん」

「そんな……私は当然のことをしただけだよ……」

「そうだよ。ゆきが気にすることじゃない。
……まあ、感謝はしといてやる。桜智が助けたってのがちょっと癪だけどな」

「ううん。桜智さんが助けてくれなければ、目が見えなくなっていたかもしれないもの」

「……そうですね。怨霊の瘴気はただ人よりも遙かに神子の身を蝕む」

不服そうにしながらも同意する瞬に微笑んで、ゆきは桜智の手をとる。

「………………!!」

「桜智さんっておしゃれですよね。簪も綺麗だし、この香りも……私、桜智さんのお香のかおり大好きです」

「………! 大好き……! ゆきちゃんが……私の……」

「お香な。いっとくけどお前自身じゃないから」

「? 桜智さんのことも好きだよ?」

「………………っ!!」

「はいはい、誤解を招くようなことを軽々しく口にしないの」

「??」
都と小松にたしなめられて、ゆきは小首を傾げて頷いた。
そんな中、一人恍惚の世界に旅立つ桜智だった。
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