アルケミラモリス

帯ゆき8

「龍馬さんが……襲われた……?」
家臣のもたらした話に、ゆきの脳裏に違う時空での出来事が思い出される。
襲撃を受け、怪我を負った龍馬。

(龍馬さんが狙われていたことは知っていたのに……私、守れなかった……)

この時空で龍馬が襲われることはなかったが、龍馬が危うい立場にいることは変わらなかったのだ。
それなのに大丈夫だと過信していたことに、目の前が真っ暗になる。

(また、私は失うの……?)

こことは異なる時空で一度、ゆきは仲間をすべて失った。
瞬も都も祟もいない世界。
元の世界は砂に埋もれることなく綺麗なままなのに、大切な人たちがいない世界はあまりにも無機質で、ゆきは己の過ちに深い後悔を抱いた。
もし、時間を遡ることができるなら――そう考えた始まりの時を思い出した瞬間、眩く光り輝いて。

「奥方様……!?」
家臣の焦る声を遠く聞いて、気づくとゆきは見知った空間にたたずんでいた。

『神子』
「白龍?」
何もない、真っ白な空間に響いたのは、ゆきを神子に選んだ龍の声。

『神子、時空を遡りたいの?』
それは以前にも聞かれた問い。

『神子の嘆きが聞こえた。神子は運命を切り拓いてきた。今また、運命を変えることを望むの?』

「もしもまだ、白龍が私を神子だと思ってくれるのなら……力を貸してほしいの。私は、龍馬さんを助けたい」

『それが神子の望みなら叶えるよ』

「あ……待って。白龍に聞きたいことがあるの」

問いかけに対する白龍の答えを聞いたゆきは、決意を宿し頷く。
開かれた時空の扉。
過去、行き来したことのあるその空間にゆきは手を伸ばすと、躊躇うことなく飛び込んだ。

**

その頃、所用で出かけていた帯刀は、藩邸に戻るや駆けつけた家臣の報告に、慌てて自室へ飛び込んだ。
そこには、布団に横たわるゆきの姿。

「ゆきくん!」
呼びかけるも、ゆきが反応を返すことはなく、平田殿が小さくにゃあ、と寂しげに鳴いた。

「倒れてから一度も目を覚まさないの? 医師はなんて?」

「は、はい。奥方様を診た医師は、身体に何も異常はみられないと……なぜ、意識が戻らないのかわからないというのです」

「異常がないわけないでしょう? 実際、こうして眠ったままなのだから」

報告に苛ただしげに眉を吊り上げながら、帯刀はゆきの手を取る。
温かい。そのことに、しかし安心できる状況でもなく、ぐっと眉間にしわを寄せた。
ゆきの身に何かが起こった。それは確か。
だが原因が特定できない。
それがどうしようもなく帯刀の心を乱す。

「龍馬のことを聞いてから、ゆきくんは倒れたんだね?」

「はい。坂本殿の話を聞かれ、考え込まれていたと思ったら急に眩く輝いて……」

「待って。ゆきくんの身体が眩く輝いた……?」

「は、はい。目を開けていられぬほど、眩い光に包まれたと思ったら、急に意識を失われたのです」

「…………」
家臣の話に考えを巡らせていた帯刀は、一つの推論にたどり着く。

「目付に知らせを」
「……は?」
「だから、至急お目付にゆきくんのことを知らせなさいと言ったんだよ」
「は、はい!」

慌てて立ち去っていく家臣の姿を苛ただしげに見送りながら、帯刀はこれから取るべき行動と、それを行うにあたって支障が出ないよう、必要な事柄を頭の中で並べたてる。
まずはゆきをリンドウに見せる必要があり、そこで得た確信により、また取るべき手が広がる。

「手が出ないというのは歯がゆいものだね……」

元八葉とはいえ神の領域に手が届くはずもなく、帯刀は昏々と眠り続けるゆきの頭を撫でると、小さく息を吐いた。

**

「――帯刀くんの見立て通りみたいだね」
翌日、薩摩藩邸にやって来たリンドウは、ゆきを見るとやれやれと肩をすくめた。

「では、龍神の力が働いたのは間違いないんだね?」

「たぶんね。ただ、今になってどうして白龍が神子殿に接触してきたのかは、僕にはわからないよ」

龍神と言葉を交わせるのは神子のみ。
過去、例外もあったことはあったようだが、基本龍神は己の神子と神域で言葉を交わし、他の人間の前には姿を現さない。
それは星の一族も例外ではなく、リンドウが白龍を呼び出すことは不可能だった。

「ただこれは、以前君達が龍神の力を借りて時空を渡っていた時とは違うんじゃないかな」

ゆきが元いた世界と、帯刀達が暮らすこの世界は、別々の時空ではあるが互いに影響を与え合うものであり、かつて帯刀はゆきや他の八葉と共に二つの世界を渡り歩いていた。
だから、もしかしたらゆきは元いた世界に戻ってしまったのではないのか……そう考えていた。

「どうして違うと思うのですか?」

「だって、あの時は皆肉体ごと時空を渡っていたじゃない。でも、神子殿の身体はここにある。
だから、今回は精神だけが何らかの理由で抜けてる状態なんだと思うよ」

「なるほど……」

「ただ、いつまでもこのままだと、いずれ神子殿は衰弱してしまうだろうね」

「………!」

「心と体は一心同体。精神が抜けてしまった身体は理に反する」

淡々と事実を積み上げていくリンドウに、帯刀が眉を寄せる。
一度経験した喪失……だがそれをもう一度受け入れることなどできるはずもなかった。

「とりあえずは龍馬くんをこちらに移動させた方がいいんじゃない? 彼の話を聞いて、神子殿はこうなったんでしょ? だったら、理由は龍馬くんなのかもしれないからね」

リンドウの指摘に、帯刀は己の命を削って神子の役目を果たしていたゆきを思い出す。
ゆきは人が傷つくことに敏感で、たとえ己を犠牲にしても人を守ろうとする、穢れなき魂の持ち主だった。

だが、龍神は確かに神子に稀有なる力を与えるが、代償がないわけではない。
特にこの世界の龍神は呪詛で弱り、神子であるゆきの命を糧に時空を渡る力や、怨霊を浄化する力を行使できていた。
もしもゆきが、龍馬を救うために己を犠牲にして龍神に力を求めたら?
巫女は元来処女性を求められる故に、婚姻でその資格を失うが、神子はいつまでも神子であるのだと、今回の一件で思い知らされた帯刀は、必死に冷静であろうと努める。

「僕の方でも少し調べてみるよ。神子殿が損なわれるのは、星の一族としても放っておけないからね」
「……お願いします」

神の力が絡む以上、リンドウといえど出来る手立てはないに等しいが、それでも今は少しでも可能性があるのならば、それが蜘蛛の糸程に頼りなきものでも縋りつきたい。
合理主義を自負する帯刀らしからぬ考えにフッと自嘲して、目の前で眠り続けるゆきを見る。

「私をこんなふうにしたのは君なんだから、早く目覚めなさい。ゆきくん」
このぬくもりを決して失いはしない。そう強く思い、そっとその頬を撫でた。

**

ゆきに変化があったのは、リンドウが訪れたその晩。
彼女の傍らで仕事をしていた帯刀は、衣ずれの音にハッとゆきを振り返った。

「ゆきくん!」
「……帯刀さん?」
覗き込むと、どこかぼんやりしているものの、意識ははっきりしているようだった。

「本当に君は悪い子だね。以前、私と交わした約束を忘れたの?」

「約束……」

「困ったことや怖いことがあったら一番に私を頼ると約束したでしょ?」

「……でも、龍馬さんを守れなかったのは私のせいなんです。だから……」

「黙りなさい!」

「………ッ」

「一人でも多くの人を救うために身を尽くすのが神子の使命……以前君はそう言ったね。
だが、私は言ったはずだよ? 守られて残された者たちが喜ぶと思っているかとね」

「はい……」

「本来ならば変えることなどできない運命さえ、君は変えることができる力を持っているのかもしれない。だが、そのために君が突然倒れて、私が驚かないと……悲しまないと思っているの?」

「……ごめんなさい」

「許さないよ」

「私、帯刀さんを傷つけるつもりはなかったんです……。でも、何も言わないで自分だけで決めて、心配をかけてしまった……そのことは本当に悪いと思ってます」

目を伏せ、眉を下げるゆきに、帯刀は息を吐くと改めて彼女を見る。

「君は龍馬を助けるために龍神の力を借りた。そうだね?」

「……はい」

「君が白龍から力を得るためには、君自身の命を力に変えなければならないんだったね」

「以前はそうでしたが、だいぶ白龍も力を取り戻したので、今回は命を削らなくて大丈夫だったんです」

ゆきの言葉に、一番恐れていた事態にはならなかったことに、帯刀は安堵した。

「ただ、身体ごと時空を渡るのは難しくて、無理をしたらこの世界に戻れない可能性もあって、だから心だけ時空を渡りました」

「……つまり、精神だけ時空を超えたということ?」

「はい」
帯刀自身時空を渡ることは経験済みだが、それでもゆきが言ってることが容易なこととは思えず、改めて彼女が神子であることを感じた。

「ご家老!」
「……なに?」
「坂本殿が目を覚まされました!」
「そう。後で行くから、医師の手配を」
「はっ」

家臣の気配が遠ざかるのを待ってゆきを振り返ると、安堵の笑みを浮かべるゆきに帯刀はその腕に抱き寄せる。

「ゆきくん、これだけは覚えておいて。私は君を失うことなど考えられない。君に変わる存在などないんだよ」

「帯刀さん……」

「忘れることは許さないよ。言葉で伝わらないのなら、その身にいくらでも刻み付けてあげる」

「それは……困ります」

「そう。なら、今後こんな無茶はしないね」

「…………」

「なに? まだ、君は私に心配かけるつもりなの?」

「もしも帯刀さんの身に何かあったら、白龍が力を貸してくれるのなら私は絶対帯刀さんを守りに行きます。だから、もうしないとはお約束できません」

「ゆきくん……」

「私がこの世界に戻ってきたのは、帯刀さんと一緒にいたいからです。だから、帯刀さんを失うのは絶対嫌なんです」

誰一人、助けることができなかった始まりの時の喪失を思い出し、ぎゅっと強く目を瞑る。
もう決して失いたくない……刻み込まれた願いは、頑なにゆきを頷かせない。

「……君はまだ他にも私に隠していることがあるようだね」
「はい……。でも、言えません」

ゆきがこことは違う時空を一度救ったこと。
新たなこの時空で再び帯刀と巡り合ったこと。
それはゆきだけが知る、八葉も都も知らないことだった。

「言いたくないのなら聞かないよ。互いの願いが同じなら、私は君と自分を守ればいいのだからね」

「……はい。私も帯刀さんを守ります」

「あのね……。私は女人に守られるほど弱いつもりはないけど?」

「あ……ごめんなさい」

「いいよ。君が私を愛してるってよくわかったからね」

「え?」

「気づいてないの? 熱烈な告白だと思うけど」

帯刀の指摘に、改めて自分の言葉を振り返ったゆきは、顔を赤らめ恥ずかしそうに身を縮こまらせる。
そんなゆきに微笑んで、帯刀も自分の腕の中の存在を改めて感じる。
かけがえのない、唯一の花。

「まずは龍馬の様子を見てこようか? 君も気になるでしょ?」

「はい」

「その後は医師の診察を受けること。問題ないとわかったら、今夜は私の相手をしてもらうよ」

「…………はい」

恥ずかしそうに、それでも頷くゆきに満足すると、手を貸し立ち上がって龍馬のいる客室に向かった。
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