忘れるはずがない

風千29

「汝はもはや神としてはいられぬ」
「そうでしょうね」

仲間と別れ、真っ白な空間の中で白麒麟の姿に戻った風早は、神の言葉を素直に受け入れた。

「汝は穢れを纏い過ぎた」
「俺は後悔していません。千尋と共に在ったことを」

白龍の命の元に地に降りて、彼の神が選んだ神子の側で人を見極める。
それが風早に課せられた命だったが、いつしか大切な任よりも神子のことが何より大切な存在になっていた。
ある時空では彼女を守ってその身に黒龍の呪いを受け、ある時空では同居人の少年と幸せに歩む彼女を見守って。
けれどもいつもある一定の間隔で時空は巻き戻されて、そしてまた自分は幼き彼女の元へ行く。
幾度も出逢いを繰り返しなから、それでもその度に辛く苦しむ彼女の側に寄り添い、支え、風早は千尋を見守ってきた。

だがそれももう終わりを迎えた。
迷いし龍は神子の選択を受け入れた。
もう時空が巻き戻されることはなく、千尋が幸せに生きられる新たな世界が構築された。
そこには幼き彼女と出逢った過去はなく、彼女の側で従者として過ごした時間も存在せず、風早の存在は関わった仲間の記憶から消えてしまったが、それでもようやく長き戦いから千尋が解放されたことが喜ばしく、後悔はなかった。

「地に降り、一個の獣と変わる」

幾度と時間を巻き戻しても、その度に人の争いに巻き込まれ、負った穢れはこの身に蓄積され、また神に抗ったことで神獣として白龍の側に在ることももう叶わなくなってしまった。
けれども、地に降りることを嘆くことはない。
なぜならそこには千尋がいるから。
彼が愛した白き神子が。

眩い光の中で目を向けると、向かいにはかつての己の姿があった。

「人として地に降れ」

四神は人を選んだ風早に驚き、憐れみや蔑みの眼差しを向けたが、彼に迷いはなかった。
たとえ彼女の中に自分の記憶がなくとも、離れた場所から少しでも見守ることが出来れば。
同じ地上で生きていけるのならば。
それが何より風早の願いだった。
神と人に別れた身体が地に降る。
彼の愛する少女がいる地上に。
感じる風は以前のような暗く淀んだ匂いはなく、柔らかく頬を撫でていった。

「あなたが守った世界はこんなにも美しいんですね」

穏やかな日差しに満ちた、千尋のような世界。
国と国とが争い、一時はすべてが滅びようとした。
その破滅の運命を覆したのは、かつての神子と同じ魂を持った少女の穢れなき願い。
この平穏がずっと守られていくことは難しいだろう。
それは異世界で見てきた歴史でも裏付けられていたが、それでも出来る限り守ってほしいと願う。
そしてそれに尽力してくれる存在も彼は知っていた。
新たな世界では千尋の母や姉、羽張彦が命を落とすこともなく、また彼女がその容姿から異形と忌まれることもない。
誰もが幸せに暮らせる世界がここにはあるのだから。

旅人として豊葦原を歩きながら、風早は千尋の噂を耳にしてきた。
この豊葦原を守る神子。
母や姉を助け、また民を愛し、気さくに話しかける姿に親しまれ愛されていることを知って嬉しくなった。
人目を憚り、一人ひっそり葦原の陰で泣いていた少女はもう風早の記憶の中にしかいなかった。

「あなたは幸せでいるんですね」

誰よりも幸せを願う存在を思い微笑むと、ふと風の薫りが変わる。
それに導かれるように振り返ると、そこに彼の愛する少女がいた。
邑人に声をかけられ、微笑む姿に自然と足が進む。
今まであえて接触して来なかったのに、その存在を目の前にして沸き上がる衝動を抑えることが出来ずに、つい声をかけてしまった。

「ここはいい国ですね」

話しかけると見知らぬ俺に驚いた様子で、ありがとうと微笑む表情にわずかばかりの緊張が見てとれて、かつて異世界で三人で暮らしていたときのことを不意に思い出した。
人見知りする千尋は、いつも新学期には緊張していて、新しいクラスに馴染めるか不安そうにしていた。
クラスメイトに話しかけられると緊張まじりに微笑み返していた表情が先程の表情と重なって、愛しさが溢れてくる。

(ああ、やはりあなたは俺が知る千尋だ)

今は風早だけの記憶でも愛しさは変わることはなく、軽く会釈をするとすれ違い歩を進める。
たとえもう共に在ることは出来なくても、あなたが幸せであるのなら他に望むものなどありはしない。
なのに追いかけてくる足音に振り返れば千尋がいて、覚えているはずがないのに名前を呼ばれて、柔らかなぬくもりが腕に飛び込んできた。

「どうして……」
「忘れるはずない……雲の名前も、空の名前も、教えてくれたのは風早だもの」

それは風早の中にしかない思い出のはずなのに、千尋の言葉に思いが溢れる。
もう呼ばれることはないと思っていた名前。
それが確かに彼女から紡がれているだ。

「もう一度、俺の名を呼んで下さい。あなたがここにいる幸福が幻ではないのだと」

どこにいても見つけられる耳も目も失ったというのに、千尋の声だけがこの胸に響く。
風早、ともう一度願い通りに紡がれた声に愛しさが溢れて止まらない。

「千尋――俺はあなたを愛している」
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