「わぁ……っ」
目の前に広がる笹百合の花に、千尋は喜びの声をあげる。
禍日神を倒し、常世と豊芦原の平和を取り戻した二人は、それぞれの国の平定のために追われる日々を過ごしていた。
夫婦ではあったが両国の王でもあり、二人で過ごす時間はとても限られていたうえ、互いの国を行き来することもままならない。
それはとても寂しいことだったが、それでも皆が幸せに暮らせる国を築きたいという重なる想いが、千尋を支えていた。
そんな千尋の前に、突然黒麒麟に乗って現れたアシュヴィン。
「アシュヴィン!? どうしてここにいるの?」
「夫への第一声がそれか? まぁ、確かに久しぶりに会うからな」
驚愕で瞳を丸くする千尋に、アシュヴィンは苦笑しながら手を差し出す。
「お前を迎えにきた。久しぶりに一緒に出かけないか?」
「え? でも……」
ちらりと流す視線の先には、山積みになった書簡が積まれた机。
「いってらっしゃい。たまには息抜きも必要ですよ」
「風早?」
不意にかけられた声に、千尋が執務室の奥に視線を移す。
「千尋はずっと頑張ってましたからね。身体を壊さないかと、ちょっと心配していたんです。
千尋をお願いできますか?」
「でも、風早……」
「大丈夫ですよ。頑張り屋の君を慕って、優秀な文官が沢山いますから。今日ぐらいは政務を忘れてのんびり過ごしてきてください」
根がまじめな千尋は、まだまだ問題が山積みとなっている様を気にかけるが、風早は優しく微笑んで促す。
「たまには休息も必要ですよ、千尋」
「……わかった。ありがとう、風早」
「どういたしまして」
頷く千尋に微笑み返すと、アシュヴィンを促す。
「お願いしますね」
「わかった。大事な王を、ひと時借り受ける」
千尋の手を取り、黒麒麟に乗せると、アシュヴィンは風早を肩越しに振り返り飛び立つ。
「気に入ったか?」
「うん! 笹百合の谷は本当に綺麗な所だよね」
二人の思い出の場所で、千尋が嬉しそうに微笑む。
「やはりお前はそうして花の中にいるのが似合うな」
「王様なんてやっぱり似合わないよね」
照れくさそうに笑う千尋を、そっと抱き寄せる。
「そんなことはないさ。お前は立派な王だ。
立派すぎて……少々妬ける」
「アシュヴィン?」
不思議そうに振り返る千尋に、アシュヴィンは苦笑を洩らした。
「お前があんまりしっかりと王の責務をこなしてるから、俺はかっさらいにもいけない」
千尋は謙遜しているが、誰もが千尋のことを中つ国の王だと認めていた。
「本当はこうしていつでも共にいたいんだがな」
「アシュヴィン……」
「でも、まだまだそうもいくまい」
感傷を振り払うように笑うアシュヴィンに、千尋がそっと口づける。
「千尋……?」
「私はあなただけのものだよ……」
気遣う言葉は本心だった。
かなうものならこのままずっとアシュヴィンのもとにいたい。
だけどそれは共に戦った仲間達を、そして目の前にいるアシュヴィンを裏切ることになる。
「お前までそんな顔をするなよ」
顔を曇らせる千尋に、抱き寄せる腕に力を込める。
「今すぐは無理だが……いつか共に過ごせる時が来る。その時は嫌だといってもかっさらっていくぞ」
「嫌だなんて言うわけないじゃない」
まっすぐ見つめ返す千尋に、アシュヴィンが唇を重ねる。
「お前は本当に…最高の女だよ」
そうして左手の甲に口づけると、そっとその指に銀の輪を通す。
「アシュヴィン……これ」
「お前のいた世界では、愛する女に指輪を贈るんだろう? これは契約の証だ」
「……嬉しい」
左手に飾られた簡素なデザインの指輪を、千尋はぎゅっと握りしめる。
「ありがとう、アシュヴィン。あなたが私の夫で本当に良かった」
「それは俺の科白だ。お前が俺の后で本当に良かった」
周りに咲き乱れる百合よりも、清楚で華やかな笑みを浮かべる千尋に、アシュヴィンがもう一度唇を重ねた。