やすらぎのとき

アシュ千24

ふ、と途切れた香りに、香時計の終わりを知る。

「そろそろ戻らないと」
公務の合間の一時・香時計が終わるまでの半刻をゆっくりと楽しむ。
それが千尋の休憩時間の過ごし方になっていた。

香時計はアシュヴィンがくれたもの。
彼手ずから千尋のためにと作ってくれたものだった。
千尋が香を楽しんでいる半刻、アシュヴィンも千尋を想ってくれている。
そう思うと、会えない日々の寂しさにも耐えられる気がした。

中つ国と常世、それぞれの国で政を行う2人が会えるのは年に数えるほど。
夫婦であれど皇族である以上、己の私情を優先することは許されない。それが千尋がアシュヴィンから学んだことだった。
千尋とて自分を慕う中つ国の民を幸せにしたい。そうできるのならば、努力を惜しむつもりはなかった。

それでも、どうしても胸の寂しさは消えはしない。
――アシュヴィンを愛しく思うから。
思慕の念を振り切るように立ち上がると、執務室へと歩いていく。

「あとは、常世の国の使者が来るのよね、確か」

争っていた以前とは違い、今の常世は友好国。
定期的な交流は当たり前になっていた。
――それでもアシュヴィンと会えるのはわずかなのだが。

謁見の間に着くと、王の椅子へと腰かける。
一呼吸の間の後、使者の目通しを許可すると、カツカツと踵を踏みならす音が廊下に響き渡った。
使者の姿を確認しようと前を見据えて動きが止まる。

「………アシュヴィン?」
やってきたのはいつもの使者ではなく、彼女の夫で常世の皇・アシュヴィン。

「久しぶりだな。しばらく会えなかったが、息災だったか?」
「え、ええ。あなたは?」
「見てのとおりだ」
「今日はどうしたの?」

アシュヴィンが橿原を訪れるという知らせは受けていないはず。
そう、疑問を瞳に宿してみれば、ふっと唇が弧を描いて。
すべてが絵になる様に、一瞬見惚れた。

「夫が妻に会いに来て何かおかしいか?」
「そんなことはない……けど、突然だったから驚いたの」
いまだ戸惑いの抜けない千尋に、アシュヴィンは立ち止まっていた足を進めると、彼女の傍らに並ぶ。

「我が后はつれないな。想いを抑えられず飛んできたというのに……」
「そんなの……っ」

アシュヴィンの言葉にバッと顔をあげると、まっすぐに彼を見返す。
そんな問いかけは意地悪だ。
千尋とて毎日アシュヴィンに会いたいと、そう思い過ごしていたのだから。

「……だが杞憂だったか。お前の想いは変わらないようだ」

鼻腔をくすぐる香りは、アシュヴィンが彼女に贈った特製の香。
千尋から香るそれが何を意味するか、彼にはわかっていた。

「……アシュヴィンのバカ」
「そう怒るな。ただの戯言だろう」
「………………」
「久々の再会だというのにそうむくれるな。
美しいかんばせがもったいないぞ」
「誰のせいでむくれてると思ってるの?」
ムッと唇をつきだすと愛しげに髪を梳かれ、その優しい指先の動きに気持ちが自然と凪いでいく。

「――会いたかった」
千尋の口からこぼれた本音に微笑むと、その身を抱き寄せ同意を口にする。

「俺も、お前に会いたかった」
「アシュヴィン……」
「この前はお前に足を運ばせたからな。今度は俺が会いに来た」

禍日神の脅威は去ったが、前皇を失ったことで国の安定は崩れ、叛徒の制圧に枯れた大地の復興と、皇座についたアシュヴィンのやることは山積み。
千尋とて一度滅びた国を建て直すのは容易ではなく、共に忙しない日々を送っていた。

だから今回の訪いがアシュヴィンの努力によって成り立ったものだとわかり、千尋は彼の背に腕を伸ばして抱きしめた。
ゆっくり近づいてくる端正な顔に目をつむる。
次いで唇に触れたぬくもりに、ずっと寒々しい風が通り抜けていた心があたたかくなる。

「……お前はあたたかいな」
ふと、こぼれた言葉に目を見開くと、柔らかい微笑みが目に入って。
同じものをアシュヴィンが感じていることがわかり微笑んだ。

「アシュヴィンも……あたたかい」
互いのぬくもりを感じ合いながら、常世の、中つ国の王である荷を一時おろして、束の間の逢瀬を慈しんだ。
Index Menu ←Back Next→