千尋の気持ち

アシュ千1

アシュヴィンと政略結婚が決まった。
戸惑う千尋の気持ちなど置き去りに、事はどんどん進んでいく。
目の前にあるのは、純白の花嫁衣裳。
まだ自分が姫であると知らなかった異世界で、友達と何気なく話したことがあった。
“いつか王子様みたいな素敵な人と”
お伽話を夢見る幼い憧れ。
それでも、結婚は愛し愛されてするものだと、漠然と思っていた。
でもこの世界では自分は王族であり、そんな自由は認められず、民の幸せと天秤にかけられ、頷くことしか出来なかった。
アシュヴィンが嫌いなわけではない。

『お前はそうして花の中にいる方が似合ってる』

笹百合の谷で、花を差し出しながらそう告げるアシュヴィンに、胸の高鳴りを感じたのは事実だ。
だがそんな優しさを見せたかと思えば、戦場では容赦なく立ちふさがりもした。
彼は常世の国の皇子で、それは当然でもあったのだけれど。

そんな彼との結婚。
本心の見えないアシュヴィンに自分のことをどう思っているのか聞いてみたかったが、いつも忙しそうに動き回っている彼に、ゆっくり会話出来る時間があるはずもなく、気づくと結婚式当日になってしまっていた。

采女に促され、花嫁衣裳に袖を通す。
本当なら心躍る瞬間であろうに、千尋の胸はちっとも喜びを感じてはいなかった。
中つ国の権威を示すように、過度に豪華にあつらえられた衣装。
それが一層、これが政略結婚であると言わしめているようで、千尋は辛くて仕方なかった。
促されて民へのお披露目のために、廊下を歩いていく。
扉の前には、この結婚が決まってから初めて目にする、アシュヴィンの姿があった。

「ほお……綺麗だな」

感嘆を口にするアシュヴィンの顔を見るのが怖くて、千尋は顔を上げることが出来なかった。
彼の口にした言葉が、たんなるお世辞だったら。
そう思うと、千尋の気持ちはますます沈んでいく。
そんな千尋の様子に、問いかけようとアシュヴィンが口を開きかけるが、扉の開く音に口をつぐむと、そのまま前へと向き直った。

外へ進み出ると、並んで立つ二人の姿に中つ国の民達が喜びの声を上げる。
国中の人々が、二人の結婚を祝福していた。
だがその祝いの声も、千尋はどこか遠く聞いていた。
心の伴わない結婚とは、こんなにも苦しいものなのか。
ちらりと上目遣いに隣をのぞきこむと、アシュヴィンが堂々とした姿で民を見下ろしていた。
王族たる、凛とした姿。
それが彼は王族としての勤めを果たしているだけなのだと、さらに千尋を追い詰めた。


結婚の儀式も終え、ようやく簡素な普段着へと着替えたアシュヴィンは、部屋の隅でずっと俯いたままの千尋へ歩み寄った。

「どうした? 我が后殿。今日は一日ずっとそんな顔だな」

覗き込んで笑みを浮かべると、千尋はぷいっと顔を背ける。
そんな千尋の姿に、アシュヴィンもまた、誤解をしていた。
千尋は民のためと自分との結婚を承諾したが、決して自分に心許す気はないのだと。

「形だけとはいえ、結婚した者同士。居心地が悪くても、別室と言うわけにはいかないぞ?」

身体全体で拒絶を示す千尋に、アシュヴィンはため息をついて離れたベッドへと腰を下ろした。
てっきりこのまま結婚を口実に抱くのだと思っていた千尋は、いぶかしげにアシュヴィンを見つめた。
ようやく顔を上げた彼女の不審そうな瞳に、アシュヴィンが苦笑を漏らす。

「そんな瞳をしなくても、何もしやしないさ。嫌がる女を抱くのは趣味じゃない」

千尋の考えを読んだアシュヴィンの言葉に、羞恥と安堵が湧き上がる。

「あなたは……その……私と一緒にいるのが嫌じゃ……ないの?」

消え入るような千尋の問いに、アシュヴィンが不敵な笑みを返す。

「嫌なわけないだろう? こんな美しい女と一緒なんだからな」

さらりと答えるアシュヴィンに、千尋はその真意を測りかねていた。

「お前は嫌なんだろう? 俺との結婚」
「…………!」
確信をつかれて顔をこわばらせる千尋に、アシュヴィンはまっすぐに彼女を見返した。

「お前には悪いが、この結婚はお前の国の意思でもある。そして常世の国にとっても、救いになるだろう。だからどんなにお前が嫌がっていても、俺はこの結婚を覆す気はない」

「……あなたは国のために、愛してもいない私と結婚しても、全然大丈夫なのね」

不安が事実であったことを知り、千尋の瞳から涙が零れ落ちた。
一度零れた涙は、次から次へと溢れていく。
突然泣き出した千尋の姿に、アシュヴィンが慌てて立ち上がった。

「千尋……」
「近寄らないで!」
近寄ろうとしたアシュヴィンを、千尋が拒絶する。

「どうせ政略結婚でしかないのなら、私のことなど構わないで。好きでもない女のことなんか、心配しないで!」

ずっと胸に抱え込んでいた悲しみが溢れて、千尋は涙をこらえることが出来なかった。
泣きたくなんかないのに。
こんなふうに弱さをさらけ出したくなかった。
それでも辛くて。悲しくて。
両手で顔を覆って泣く千尋を、温かいぬくもりが包み込んだ。

「……離してッ!」
「泣くな。お前に泣かれると、どうしていいかわからなくなる」

困ったようなアシュヴィンの声は、今まで聞いたことがないくらい、戸惑いを含んでいた。

「人を気遣うのにどういえばいいのか、そういうことがよくわからないんだ。
人と相対する時は、常に相手の行動や言葉に真意を探る……そんなふうに教えられてきたから。
だから、お前がそうやって泣いていても、どうやってその涙を止めればいいのか、わからないんだ」

「…………」

「だから、もう泣くな。お前が嫌なら、俺は必要な場以外では、お前の傍には近寄らない。
お前を泣かせたくないんだ」

たどたどしく言葉をつづるアシュヴィンに、それが本当の彼の気持ちであることが、千尋にも伝わってきた。

「アシュヴィンのことが嫌いなわけじゃない。
ただ、気持ちが伴わない結婚が苦しくて……悲しくて……」

「俺はお前を気に入って…違うな。こういう時は……愛してる。そういうんだな」

「うそ……」

彼の言葉を否定する千尋に、アシュヴィンは彼女の頬を掌で包み込むと、瞳をむき合わせた。

「本当だ。俺はお前のことを嫌いだと、一度も思ったことはない。初めてお前を見たときから、
ずっと気になっていたんだ」

思いがけない告白に、千尋の胸にあった辛く悲しい塊が、すっと溶けていくのを感じた。

「私、ずっとあなたはこの結婚を国のための……ただの政略結婚としか思っていないんだと……
そう思っていたの。だから、それが王族として生まれたものの定めだって分かっていても辛くて、悲しくて……」

瞳に涙を浮かべる千尋に、アシュヴィンが優しく口づける。

「愛してる……千尋。まさかお前も俺のことをそう思ってくれていたなんて、考えもしなかった」

愛しそうに見つめ、もう一度唇を重ねるアシュヴィンに、千尋の胸に温かいぬくもりが広がっていった。
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