呼吸も瞬きも忘れて

九望1

九郎は雨乞いの儀に望美を呼んだことを後悔していた。
もとは望美からの申し出であったとはいえ、気まぐれな後白河法皇のこと、危険は考えられたのだ。
しかし源氏の名代として法皇の言葉を無下にすることも出来ず、自分のせいで衆人の元で舞わなければならなくなった舞台上の望美を不安げに見つめていた。

(そもそもあいつに舞など舞えるのか?)

共に行動するようになってから今まで、望美が舞を舞っている姿など一度も見たことがなかった。
そんな九郎の心配を他所に望美は扇を開くと静かに舞い始めた。
張り詰めた空気の中、優雅に扇が揺れる。
流れるように舞うその姿は蝶のよう、揺れる扇は花びらのようで。
まるで自然の美を体現しているかのようなその舞に、今まで舞の美しさなど解することのなかった九郎は、呆然と見惚れていた。
一瞬にも、永遠にも思えた夢のような一時。
しかしその一時は、後白河法皇の無粋な大声によって崩れ去った。

「見事、見事! 龍神に舞を認められるとは、すばらしい舞手。これほどの舞手を抱えておるとは、源氏も隅におけぬの」
「は、はぁ……恐れ入ります」
望美の舞を絶賛する法皇に、嫌な予感が湧き上がる。

「この舞手、気に入ったぞ。九郎、余に譲ってくれぬか」

きょとんとする望美の隣りで、予感的中に九郎は顔を強張らせた。
欲しいと望んで手に入らぬものはない身――後白河法王は当然のように望美を望んだ。

「後白河院、お待ちいただけますか。この者は
将来を誓い合った私の許婚です。たとえ後白河院の頼みでも、お譲りするわけには参りません」

九郎の言葉に、抱き寄せられた望美が驚愕する。
九郎自身、とっさに出た己の言葉に驚いているのだから、当然といえば当然の反応だったが。

(馬鹿、芝居だ。そうでもしないと、お前を庇いきれん)

気づかれぬように耳打ちすると、望美が頬を赤らめながら頷く。
そうして九郎の必死の演技で、その場は何とか取り繕うことに成功したのだった。

 * *

雨乞いの儀の後、開かれた宴で散々質問攻めにあった九郎は、夜も更けた頃、ようやく六条堀川の邸に戻ってきた。
後白河法皇に望美の召し抱えを蒸し返されぬために、九郎は苦手な口にかなりの労力を割いたのだった。

「まぁ……これでもう大丈夫だろう」

法皇の機嫌を損ねることなく、望美を守ることが出来たことに安堵すると、酒で火照った身体を醒ますために濡れ縁に出た。
婚約の祝いだと次々と酒を勧められ、いかに酒に強い九郎も身体に酔いを感じずにはいられなかった。
前髪をかきあげ、空高く上った月を仰ぎ見る。
その柔らかな光に、今宵の月と同じ名を持つ少女を思い出す。
今日、始めて抱き寄せた望美の身体は、己の腕にすっぽりと収まってしまうほど華奢で、こんな身体で怨霊相手に剣を振るっていたのかと、今更ながらに驚いた。
ほのかに香る、花とも違う甘い香りに、彼女が女であるということを高鳴る鼓動で意識した。

行軍に加わりたいと、師から習った特技・花断ちを見せた望美。
彼女が放った花断ちは見事で、とても数日で身につけたとは思えぬものだった。
約束もあり、行動を共にするようになったが、九郎は龍神の神子というものに半信半疑でしかなかった。
しかし苦戦していた平家の怨霊を封印する特別な能力に、神たる龍に選ばれた確かな神子なのだと認めるようになった。

それとは別に、臆することなくまっすぐ前を見つめる性格にも、九郎は好感をもった。
そうしていつしか信頼を抱くようになっていた仲間が、まごうことなき女なのだと今更ながらに今日気づいたのだ。
その昔、袖振山に舞い降りたといわれる天女とはこうであったのではないかと思うほどに美しかった、望美の舞う姿。
後白河法皇から庇うために抱き寄せた身体は柔らかで、腕を掠めた紫苑の髪はまるで絹糸のように滑らかで。
ほんのり頬を染めた顔は、隣で共に戦っていた彼女とはまるで違う可愛らしい年頃の少女のもので、思い出すだけで九郎の鼓動は壊れんばかりの早鐘を打った。

「なんなんだ……この胸のざわめきは……」

初めて感じる胸の疼きに眉をしかめる。
恋などしたことのない九郎には、それがほのかな恋心によるものだと分からなかった。
熱病のような疼きに戸惑いながら、九郎はその日脳裏から望美の姿を消すことが出来なかった。
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