源平の戦に終止符を打ち、熊野へ凱旋してからは忙殺される毎日だった。
それは八葉として望美と行動を共にしていた間、熊野を留守にしていたツケであり、別当たるヒノエには当然のことだったが、次々と舞い込む仕事に思うように望美との時間を作れず、深々とため息をついた。
「頭領?」
「いや、なんでもない。で、これは?」
「ああ、それは……」
海の男の中でもとりわけごつい副頭領に、何でもないと軽く手を振り、仕事の話に戻る。
(望美に見せたい場所が、山とあるのにね……)
前に熊野を訪れた時は、源氏として熊野への助力を願うというものだったため、ろくに辺りを見て回る暇もなかった。
この熊野を終の住処に……と、そう選んでくれた望美に、熊野の素晴らしい場所を見せてやりたかった。
だが現実はといえば、山とあるのは仕事。
おかげで、熊野に戻ってからというもの、望美とろくに話すことさえ出来ずにいた。
「これは烏の報告を待って行動……と、これで終わりか?」
「はい、お疲れ様でした」
ひとしきり指示を出し終えたところに、タイミングを見計らったような鈴のような声が耳に届いた。
「ヒノエくん? お仕事終わった?」
「やあ、姫君。ちょうど目処がついたところだよ」
目配せすると、心得たとばかりに水群衆が部屋を出ていく。
「邪魔しちゃったかな」
「いや、ちょうど終わったところだよ」
入口で申し訳なさそうに水群衆が去って行った方を見ている望美に、手招くと隣りへと座らせた。
「へへ、こうしてヒノエくんと話すの、久しぶりだね」
「ずっと放ったままですまなかったね」
「ううん。ヒノエくんが忙しいの、わかってるから。それに、お仕事してるヒノエくんもカッコいいし」
照れくさそうに微笑む望美に、苦笑が浮かぶ。
どうしてこの少女は、こんなにも可愛らしいのだろう。
結婚の儀が終わるまではと、手を出すことを差し控えているヒノエの理性を、あっさりとぐらつかせてしまうのだから。
「本当に罪な姫君だね」
「え?」
「いや、なんでもないよ」
無垢に問い返す望美に、笑みで誤魔化す。
戯れに花を選び、一時甘く酔いしれて違う花へと飛んでいく。
そんなふうに、恋とも呼べぬ一瞬の交わりを楽しんできたヒノエを捕らえた極上の花。
それが、源氏の神子と呼ばれていた斎人・望美だった。
「あのね、ヒノエくんにお願いがあるの」
「お前の願いならばなんだってかなえるよ」
欲のない望美の珍しい申し出に、一も二もなく了承する。
「瑪瑙、琥珀、珊瑚、象牙、真珠……なんだって献上するよ?」
「そうじゃなくて……明後日、陽が沈む前に帰って来れないかなぁって」
思いがけない言葉に瞠目すると、望美が慌てて手を振った。
「あ、あの、忙しかったらいいから。もし大丈夫ならっ……て」
「お前の願いを断るなんて、そんな野暮を俺がするわけないだろ? 明後日、日が暮れる前に帰ればいいんだね?」
「うん、ありがとう!」
花の顔に浮かんだ眩い笑顔に、つい腕を伸ばして抱きしめる。
「ヒノエくん?」
「どうしてお前はこんなに可愛いのかな。
そんなに嬉しそうな顔をされたら、抱きしめずにはいられないだろ?」
その日に何があるのかはわからないが、それでも自分が帰ってくることをこれほど喜んでくれる様が愛しくて、溢れる想いのままに額に口づけを落とす。
「ヒ、ヒ、ヒノエくんっ?」
「ふふ、楽しみにしているよ?」
腕の中で慌てる初心な少女に、片目をつむって微笑む。
そうして月が変わった、卯月の一日。
ヒノエは驚きと共に、望美への想いを深めるのだった。
『Happy Birthday ヒノエくん。大好きだよ』