それでもお前を手放せない

ヒノ望18

――望美の様子がおかしい。
そのことに気づいたのは、散策から戻ってからのこと。
望美を熊野に連れて来てから、ずっと任せきりだった別当の仕事が忙しく、ようやく出来た時間を共に過ごしたのは、つい数刻前のことだった。
じっと外を見つめている翡翠の瞳は、しかし目の前の景色を映してはいなかった。
その様子を黙ってみていたヒノエは、わざと音を立てて扉を開けると、望美の意識がこちらへ移る。

「あ、ヒノエくん。湯浴みすんだの?」
「ああ。どうしたんだい? 天女は月に魅入られたのかな?」

そうでないことを知っていながらわざと問うと、ふるふると紫苑の髪が力なく揺れた。

「――恥ずかしがりの俺の奥方は、何に心を曇らせてるんだい?」

普段は共にと誘うと、恥ずかしがりながらも一緒に入ってくれるのだが、今日は困ったように笑って共湯を断った望美。

「ごめんね」
悲しげな笑みを浮かべる望美に、ヒノエがそっとその身を抱き寄せる。
触れていないと消えてしまいそうな、そんな錯覚に捕らわれる。

「お前の心を曇らせてるのはなんだい? 俺に教えてくれないか?」

重ねて問うと、望美の瞳が揺れた。
きゅっと結んだ唇が、二人の間に沈黙を生む。
葛藤しているのであろう、その間を黙って待っていると、望美がぽつりぽつりと胸の内を語りだした。

「今日……ね。瀞八丁に行った帰りに親子とすれ違ったでしょ?」

望美の話に相槌を打ちながら、今日の出来事を思い返す。
父と母の手を握り締め笑う親子の姿を、一瞬立ち止まり見送っていた望美。

「あの親子を見ていたら……自分の子供の頃のこと思い出しちゃって」

震える声に、望美が心曇らせたことが何であるのか、ヒノエは思い当たった。
仲の良い親子の姿。
その姿に望美は過去の自分を映し見たのだ。

「私は幸せなのに……ヒノエくんが傍にいて……
とっても幸せなのに」

なのに寂しいと――そう思ってしまったのだ。
肩を震わせる望美を、ヒノエがぎゅっと抱きしめる。

「ごめん……ごめんね……」
「謝らなくていい」

ぽろぽろと涙をこぼしながら謝罪する望美に、ヒノエが苦しげに眉を寄せる。
この世界にいて欲しいと、そう願ったのはヒノエ。
それを笑顔で叶えてくれた望美が引き換えに失ったもの――それが今の彼女の涙をうむものだった。

熊野を愛し、望美をも求めたヒノエと。
ヒノエの愛に応え、親を、友を、住んでいた世界を、全てを失った望美。
それがどんなに辛いことか、ヒノエは知っていながらあえて眼をそらしていた。

ただ愛しくて、愛しくて。
胸を焦がす恋情を初めて知った。
本当はずっと傍に居て、一日中望美に愛を囁いていたい。
だけど、自分には天秤にかけることなど許されない、大事なものがある。
天を捨てさせ、地上に留まらせてまで手に入れたというのに。
そんな望美を悲しませている自分が、どうしようもなく腹立たしかった。

「ごめん……ヒノエくん……ごめんなさい……っ」

泣きながら謝る望美に、抱きしめる腕に力をこめる。
分かっていながら望美にそれを強いたヒノエには、謝ることさえ出来なくて。

「お願い……ずっと抱きしめて離さないで……」
「離さないよ。離せない……っ」

今、望美が求める自分という存在全てを捧げて。
涙の海を漂う彼女を溺れさせないように、強く強く掻き抱いて。
愛してると何度も何度も繰り返した。
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