君に恋をした

弁望113

「弁慶さん、終わりました?」

ちょうど調剤が一段落したところの声に、ええと頷けば、こっちに来てくださいと呼ばれた。
立ち上がると足と肩の凝り具合に、結構な時間を費やしていたことを悟り、その間望美を放ってしまっていたことに気まずさを感じながら彼女の待つ居間へと足を運ぶとそこに姿がなく、奥の部屋を覗いた。

「弁慶さん、ちょっとここに来てください」
「どうかしましたか?」

この時間から珍しいと思いつつも素直に傍らに座ると手を引かれて、崩れかけたバランスに驚きながら彼女を見ると、ポンポンと膝を指し示された。

「少し横になってください。最近根を詰めすぎです」
「とても魅力的な誘いですが大丈夫ですよ。ようやく時間が出来たので、本を読もうと思っていたんです」
「ダメです。読書はお昼寝の後にしてください。ようやく、何て言うぐらい最近忙しかったんですよ?」

構って欲しいとねだられているのかと考えるも、どうやら身体を気遣ってのことらしい。
可愛らしい提案に思案するも、再度手を引かれて彼女を見る。

「君の膝枕で、ですか?」
「布団がよければ敷きますよ」
「いえ……では失礼しますね」

昼から布団を敷くほど体調を崩したわけでもないと身体を横向けると、そっと傍らの膝を枕にする。
柔らかな感触にこそばゆさを感じると、そっと頭を撫でるぬくもりに仰ぎ見た。

「望美さん?」
「あ、頭を撫でられるの嫌いですか?」
「いえ、大丈夫ですが……」
「弁慶さんって本当に働き者ですよね。源氏にいた頃も常に忙しそうだと思ってましたけど、たまにはゆっくりするのも大事ですよ」

ゆるりと頭を撫でる手は優しく労るもので、戸惑い視線をさまよわせる。
まるで幼子にするように撫でる手は、けれども幼少期に経験したことなどない。
貴族の娘であり、父に無理矢理さらわれ嫁いだという母から愛情を向けられることはなく、またこの鬼を思わせる髪から周囲の反応も良いものでなかったから、愛情を注がれた記憶というものがなかった。
母が亡くなってまもなく比叡に預けられることになったのも、別当家には異端と疎まれてだったのだろう。
だからこうして無条件に甘やかされる状況というのはひどく落ち着かないというのに、優しい手の感触が身を起こすことを躊躇わせる。

「……それは君のいた世界の歌ですか?」
「そうです。子守唄っていったらこれかなって……うるさかったですか?」
「いいえ。そう……子守唄ですか……」

和やかな旋律は赤子を宥め、安らげるものらしい。
耳馴れないというのにどこか穏やかな気持ちになるのはだからなのだろう。
ゆるり、ゆるりと頭を撫でる優しい感触と、和やかな旋律に目蓋が降りる。
まるで日溜まりにいるような心地好さに肩から力が抜けた。
こんなふうに穏やかな時間を過ごしたことなどあっただろうか。
熊野、比叡、源氏にいた頃を思い返しても、気を抜いて休んだことなど恐らくない。
それはどこにいても誰といてもそうで、一時の油断が身を滅ぼすと常に気配を探っていた。
なのに、今この時はいいのだとやわらかなぬくもりが伝え、それを甘受する自分がいる。
そんなことを思ったのは初めてで、ああだから彼女だったのかと鈍った思考で認識する。

すべてが終わったあの時、何故彼女を引き留めたのか。
目的を果たすためにその存在が必要で、彼女は十分過ぎるほど役目を果たしてくれた。
彼女には帰る場所があり、大切な家族があり、龍神の神子としての役割も果たした。
元の世界に帰さなければならないと、そう分かっていたのに、自分の口から出た言葉は真逆のものだった。
恋心を口にしておきながらその思いをもっていたわけではない。
引き留める理由として受け入れやすく合理的だったから。
そう打算的に考え、出た言葉だった。 そんな自分を何故望美は受け入れたのか?

彼女の瞳にもまた恋情の色はなかった。
弁慶を助けようと時空を越えたと語った時でさえ、そこに浮かんでいたのは悲しみと痛みであり、しかしその根底を支えるのは恋情ではなかった。
清らかな神子の慈悲深さだったのか、理由は今でもわからない。
けれども聖女のような慈愛だったのなら、今自分が抱くこの感情はどうすればいいのか。
あの時恋はしていなかった。
けれども今、この胸に宿るのは。
求めて、けれども手を伸ばすのを躊躇ってしまう。
なのにーー決して放せない。

「厄介なものですね……」

色仕掛けをしたことはあっても、恋をしたことはなく、だからこそ自身の思いに戸惑ってしまう。
男の性と言ってしまえばそうなのだろう。
求めるのは必然で、摂理とも言えるのだから。
けれどもそれはただの性であってはならない。
なのにこの思いが恋なのか分からなかった。
ただ一つ、確かなのは放したくないという思い。
向けられる笑みが愛しくて、触れるぬくもりが心地好く、抱きしめたい。

(ああ、そうか)

浮かんだ思いに苦笑する。
存外自分は鈍いらしい。

(愛しいと、これこそが恋なんでしょう……)

つらつらと言葉を並べても、ただ一つの真実を口にすればすとんと腑に落ちてしまった。
身を預け、安らげる存在。
愛しいと、触れたいと望むただ一人の女性。

「望美さん」

夢現で呟くと子守唄が止む。

「好きです」

そう呟いたのは夢か現か。
それを確かめることなく眠りに誘われて、彼女から真っ赤な顔で怒られるのは起きた後だった。

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